
九段南の蕃書調所跡の碑。こちらから転載させて頂きました。

1903年ころの赤門。こちらから転載させて頂きました。
このシリーズでは世界の様々な科学技術アカデミーを紹介しています。
最終回の第二十三回目は、いよいよ、日本の科学技術アカデミーです。
GROKさんによると日本史上最高の科学技術アカデミーは東京帝国大学(現在の東京大学)が最も顕著な機関として挙げられるそうです。
1877年(明治10年)に創設され、明治維新後の日本の近代化を支える学術機関として発展とのことです。
ですが、実は、それ以前の源流があります。
1856年(安政3年)に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)です。ペリー来航(1853年)の3年後ですね。
これが1862年(文久2年)に洋書調所と改称されるとともに組織が拡充され、1863年(文久3年)に「開成所」が設置されたそうです。
開成所では、学則を欧米の学校にならい、教授科目を蘭・英・仏・独・露の語学と天文・地理・窮理(自然科学や物理学)・数学・物産・化学・器械・画学・活字の諸科としたとのこと。
これが明治新政府に接収され、「開成学校」となり、大学南校⇒第一大学区第一番中学校⇒(第一大学区)開成学校⇒東京開成学校⇒東京大学と名前と編成が変化します。
所在地も九段坂下(蕃書調所)から小川町⇒神田一ツ橋(現在の神田錦町)と変遷し、現在の本郷に移ったのは1885年だそうです。
出発点は「外国の書籍を翻訳して参考にする」役割だったようですね。「トップダウン基調の源流はそこだったのか、、、」と心の中で考えたのは秘密です。
さらに名前が変遷して東京大学⇒帝国大学(1886年)⇒東京帝国大学(1897年)⇒東京大学(1947年)現在に至るとのこと。「名前や所在地の変遷が猫の目状態なのも〇〇の影響なのだろう、、、」と心の中で考えたのも秘密です。
されど、近代日本の科学技術の発展において中心的な役割を果たしたとのこと。特に、物理学、化学、工学、医学などの分野で優れた研究者が輩出されたそうです。
1)物理学:長岡半太郎が原子模型の研究を行い、後の原子物理学の発展に寄与。1904年に「土星型原子模型」を提唱したとのこと。
2)化学:桜井錠二が日本の化学教育と研究の基礎を築き、化学工業の発展に貢献したそうです。
3)工学:山川健次郎らによる工学教育の確立や、地震工学の先駆的取り組みが行われたとのこと。
4)医学:出身者の北里柴三郎が破傷風やペストの研究で国際的な評価を受け、細菌学の発展に寄与したそうです。
ほかにも、政府や産業界に多くの人材を供給し、鉄道、電気、通信などのインフラ整備や産業発展を支えたとのこと。
GROKさんによると、江戸時代も含めたそれ以前の日本には科学技術アカデミーと定義できる機関は存在しなかったそうです。科学技術の知識は陰陽師や寺院に蓄積され、あるいは職人の現場で活用されていたようですが…。これが何を意味するのか、一考に値するように思われます。
とまれ、このシリーズはこれで一区切りです。紀元前から科学技術アカデミーとしての大きな実績を積んだ機関もあれば、ルネッサンス以降の科学革命を担った機関もあり、19世紀の種まきが20世紀に実った機関もあり、「遅れ馳せながら」の機関もあり、、、のご案内となりました。
「遅ればせながら」機関も、米国のMITが19世紀に掲げていたような優れたレベルのポリシーを抱くことができれば、今後に大輪の花を咲かせることも期待できる、、、かもしれません。
最後までお付き合い下さり、誠にありがとうございました。
⇒番外編はこちらです。
このシリーズの初回はこちらです。
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