
今川範国の墓所。こちらから転載させて頂きました。
このシリーズでは島田に縁深い今川氏の源流に遡った論考を進めています。
前回は、今川範国(1295-1384)の足利尊氏(1305-1358)との係わりを中心に据え、今川範国が遠江國守護および駿河國守護に任命された経緯を論考しました。
今回は駿河國守護としての今川範国の動きを見てゆきます。こちらを参考とさせて頂いています。
先代の今川基氏の時代に引間(浜松)に進出していた今川氏ですから、今川範国も遠江國を拠点としていたことは想像に難くありません。
ですが、時は南北朝の混乱の初期です。北朝の足利尊氏から守護を任命された今川範国にとっては敵方の南朝側の武将が遠江國および駿河國に根を張っていました。遠江井伊城(三岳城)(浜名区引佐町)の井伊氏、駿河安倍城(葵区羽鳥)の狩野氏、徳山城(川根本町)の鴇(土岐?)氏などが南朝勢だったようです。
そのため、狩野氏や鴇氏の抵抗を受けた今川範国は、当初、駿河國に拠点を作れなかったとのこと。それでも、遠江國の南朝勢の諸城を攻略した1340年には駿河國の攻略体制が整ったようです。
その中には鴇氏が所有していた落合城(島田市)も含まれ、それを攻略するために築かれた岸城(島田市)は今川範国・今川範氏(1316-1365)の親子が駿河國に入った最初の拠点だったようです。
さらに、駿河國の本拠として1352年に築城したのが大津城(島田市※)だったとのことです。ということは、今川範国・今川範氏の岸城は1338年から1352年までは拠点だったと考えられます。その後も砦として存続したことでしょう。
※)当時の「大津庄」は明治になって設立された「大津村」の範囲よりは広く、岸村も「大津庄」に含まれるのではないかという説もあるようです。
岸城については郷土史家の紅林時次郎氏が「島田大津大長六合四ヵ村郷土資料」で「総門の西上山(現在の阿知ヶ谷東山の裏山)に当たって城砦があった。この城砦を岸の城という」と述べたのが最初なのだそうです。
このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの第一回目はこちらです。
コメントを残す