
イレーネ王女の「Dialog with nature (自然との対話)」。こちらは成人の話のようです。こちらから転載させて頂きました。
このシリーズでは科学技術分野に特化した教育論を論考しています。
今回は私の持論を紹介させて頂きます。間違っている可能性もありますので、十分にご注意の上、ご高覧下さい。
「科学技術教育における都会の弊害」を論考してみます。
ここで、「都会」の定義は「自然よりも人(に触れる機会)が多い環境」とします。また、科学技術教育の目的を「判断力」や「理性」の育成に限定します。もちろん、科学技術的な知性における判断力や理性です。「悟性」の育成には「都会の弊害」があまり生じないと考えます。本論での育成対象の年齢層は小中学生です。
そもそも、都会は教育上の様々な点で有利なことは明白です。教育のための素材や人材の豊富さと多様性は田園のそれとは比較になりません。博物館や美術館は数多ありますし、教育関係者も数多です。
それが故に、都会の子供たちは「自然との対話」よりも「人との対話」をより多く経験します。慣れ親しみます。
人間は社会的動物なので、「人との対話」に馴染み、そのスキルに秀でることは決して悪いことではありません。
ですが、科学技術的な「判断力」や「理性」の育成を考える際には、「自然との対話」の能力を育成することはより重要になってきます。
もちろん、両者のスキルをバランスよく育成できれば、それがベストであることは言うまでもありません、一般的には。
しかしながら、ここでは、究極的な「判断力」や「理性」を「大人になってから」求められる場面を考えてみたいと思います。「ここ一番という大事な場面」で判断力や理性を発揮しなくてはならない、そのような状況を想定してみましょう。
そこでは、最後の最後に当事者が「人との対話」に頼るのか、「自然との対話」に頼るのか、は大きな分岐点となります。「頼るのか」は「優先するのか」と換言してもよいかと思われます。
「人との対話」は、すなわち「既知の情報を他者に求める」ことと等価です。悟性の発揮はこれで十分でしょう。他方、「自然との対話」は自然から「未知の情報を学ぶ」ことになります。
新規なことを判断したり、理性を発揮して新規なことを見出す際、どちらがより正しい選択となるでしょうか?科学技術的観点からです。
私には田園で育ったニュートンが自然との対話に活路を求めたように思えてなりません。
なお、「自然との対話」のスキルは「授業で体験」程度の育成方法で身につくものではないと私は考えています。
このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの第一回目はこちらです。
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