
馬頭観世音像の左側の光背。「享保十二年」と読み取れます。

同じく右側の光背。「順礼供養」と読み取れます。
このシリーズでは島田市岸の大日山瞰川寺の境内にある石碑と御地蔵様をひとつずつご案内しています。
以前に馬頭観世音を紹介しましたが、再調査を行い、興味深い事実が判明したのでご案内します。
馬頭観世音像の光背(仏像が放つ「後光」を視覚的に表現したもの)に文字が認められました。
左側に「享保十二年」とあります。西暦1727年※です。大日山瞰川寺の最初の御堂の建立からしばらく経った時期です。
※(2026/4/22)1727年の国内の出来事としては、下記の享保の改革が進行中の他、享保の大飢饉(初期段階、1732年にピーク)の兆しがこの頃から現れ始め、農村では徐々に不安定な状況が見られたそうです。海外では、イギリスにおいてロバート・ウォルポールが実質的に初代首相としての地位を確立し、議会政治の基礎が固まったとのこと。また、万有引力を発見した科学者、アイザック・ニュートンがこの年に亡くなったそうです。中国の清朝では、雍正帝のもとで中央集権化が進み、財政や官僚制度の整備が行われていたそうです。
直接の関係があるかどうかわかりませんが、幕府で「公事方御定書(江戸の訴訟の基準)」の制定が開始された年なのだそうです。富士山の宝永噴火(1707年)やお伊勢参りの流行(1718年)、江戸大火と田沼意次生誕(1720年)、小石川養病所設置(1722年)がそれ以前の四半世紀の出来事でした。徳川吉宗の享保の改革が進行中でもありました。
本年(2025年)から遡ること298年です。再来年で建立300年となります。
光背の右側には「順礼供養」と読める文字が刻まれています。観音霊場などの特定の寺社を巡礼したことを記念して建てられた供養塔のことを意味することもあるようです。
ちなみに、同時期に回国順礼を行った勝厭という道心者(仏教に帰依した人)が帰路に建てたという成子地蔵が東京都新宿にあります。神楽坂の脇にある坂はこの地蔵の建立から「地蔵坂」と呼ばれるようになったそうです。
大日山瞰川寺の馬頭観世音像も回国順礼を行った人が建立したのではないでしょうか?
ちなみに、江戸時代に馬頭観音の信仰が盛んになったのは、農村の発展とともに馬が重要な役割を果たすようになったためだそうです。牛馬の守護、農耕、交通の安全などを願う人々の間で、各地に馬頭観音塔が建てられ、巡礼の対象となったとのこと。
300年前、農村だった岸村でも馬が沢山飼われていたのでしょうか?
このシリーズはこちらに続きます(最新記事がアップされたらそちらが表示されます)。また、本シリーズの初回はこちらです。
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