
諏訪の名物の寒天。こちらから転載させて頂きました。
少しわき道にそれるかもしれませんが、もしかすると、重要な要素になる可能性もありますので、標題について考察してみます。
1945年4月以降、朝永博士は島田で単身赴任生活を送っておられました。
他方、木庭二郎氏は東京大学物理学科と共に諏訪に疎開されていました。
終戦までの期間、両者が会う機会はあったのでしょうか?ノーベル賞受賞者の南部陽一郎博士は「朝永は木庭を片腕として最も重要な問題に取組んだ」と回顧されていますので、この点は一考の価値があると思われます。
南部博士は戦後のある時期に東京大学の一室で木庭氏と机を並べていたとのことで、極めて信頼性の高い回顧です。
書籍「回想の朝永振一郎(松井巻之助編、みすず書房)」には次のような一節があります。
「戦争末期、ゲートルと運動靴といういでたちで、大きなリュックを背負った先生(朝永博士)が、突然、御影の叔母の家に現れた。」
リュックの中身は、朝永博士の叔母様がお好きだった寒天だったそうです。叔母様によると、残念ながら、その寒天は御影の空襲で食べる前に焼失してしまったとのこと。
こちらによれば、御影空襲は1945年8月5~6日だったようです。朝永博士の御影訪問はこれ以前だったと考えられます。
さて、寒天と言えば諏訪盆地の名物です。その諏訪には木庭二郎氏が疎開していました。
証拠はこれだけです。
ですが、島田研究所で同僚だった小谷正雄博士の本籍は東京大学理学部であり、その時期は疎開先の諏訪にありました。小谷博士は学生の指導に比較的頻繁に諏訪を訪れていたようです。
従って、朝永博士が小谷博士とともにそこに訪れた可能性はゼロではないでしょう。そこで木庭二郎氏と何らかのコンタクトがあっても不思議ではありません。木庭氏は、先述のように、繰り込み理論の仕上げ時期に主力として活躍された方です。
もしも両者が会っていたとしたら、どんな議論を交わしていたのでしょうか?
さらに、、、。
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