朝永振一郎博士と島田市 017 いよいよクライマックス?

1945年秋の東京。9月21日撮影の写真。配給に並ぶ人々。こちらから転載させて頂きました。

赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。

先の論考では、アイディア『C論文+D論文』を得たのが繰り込み理論の発案のタイミングであり、「D論文の内容を把握した1943年秋」から「1947年11月のしばらく前(半年前程度?)の若手に計算の指示を出した時期」の間のどこかであろうと推定しました。
そしてその期間には、朝永博士の島田単身赴任期間(1945年4月後半~8月中旬)が含まれることも強調しました。
ここでは、宮本米二氏の回顧録を基に、発案のタイミングの推定期間をさらに狭めてみます。

まずは、終戦後の朝永博士と愚問会メンバーの動向をざっくりとまとめてみましょう。
朝永博士は1945年8月16日、小谷博士と共に列車で東京に戻っておられます。東京では、被災を免れた岳父の関口鯉吉博士の官舎(三鷹)に身を寄せたようです。関口博士はこの時点で東京天文台の台長でした。
同年8月下旬から9月上旬にかけて福田博氏を除く愚問会メンバーの3人が東京大学を卒業しました。そこで、朝永博士は愚問会メンバーと言葉を交わしたようです。これが「輪講のおまけの一回」だったようです。

この後、「GHQが原子核研究を禁ずるかもしれない」との噂が流れたようで、朝永博士も珍しく「専門分野を生物学に変えようか、、、」と嘆かれたとのこと。
同年秋には愚問会メンバー3人(木庭氏、早川氏、宮本氏)が独自のゼミ活動を再開します(空腹に耐えながら、だったそうです)。
同年11月にGHQが理化学研究所のサイクロトロン装置を破壊するも、同年12月には研究禁止が緩和されました。
そして翌1946年の4月には東京文理科大学大久保キャンパスの一室に朝永グループが再結集し、朝永博士が若手に指示を出しました。

その朝永博士の指示は、早川幸男氏の回顧によると「超多時間理論の具体的問題への応用」であり、宮本米二氏によるとそれに加えて「多次元理論における縦波の消去を相対論的に行う方法の模索」も含まれていたようです。
宮本氏は「繰り込みの考えの芽生えがそこに」と回顧されています。これによれば、朝永博士の念頭には1946年4月の時点で「繰り込み理論の芽生え」なるものが存在したことになります。

繰り込み理論発案のタイミングの可能性のある期間がさらに狭まってきました。すなわち、1943年秋から1946年4月までの2年半です。この中には朝永博士の島田単身赴任の4か月が含まれます。

繰り込み理論の発案と島田市との地縁は先の9%から13%に可能性が上がりました。さらに、、、。

このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

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