朝永振一郎博士と島田市 018 ノーベル賞研究の発案場所は島田が有力

赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。

愚問会メンバーだった早川幸男氏は1944年から1949年までの間に使用したノートを数冊保存存されていたそうです。
そこには種々のミーティングでの発言や参考にした論文が記されているとのことです。これを早川ノートと呼ぶことにします。早川氏は自らのノートに基づいた文章を1991年に寄稿されておられます。

その中には、戦時中の愚問会メンバーと朝永博士とのやり取りが記されています。
が、本論で発案の素と定義したC論文(ダンコフ博士)あるいはD論文(坂田昌一博士)を案内する朝永博士は登場していません。
これは何を意味するでしょうか?

推理に飛躍が生ずるかもしれませんが、1945年3月の時点では、繰り込み理論の発案と考えるべき「C論文とD論文の融合」が朝永博士の脳中に無かったことの証左とも考えられます。
朝永博士の研究指導スタイルでは「口に出されるときには方針が固まっていて内容が的確」という指摘がありますので、この推定にも分があると思われます。

さらに、早川ノートの1945年9月3日付のページが紹介されています。
早川氏、木庭氏、宮本氏が東京大学を卒業した(終戦直後の混乱の中、さすがに卒業式は開催されなかったようですが、、)タイミングで朝永博士と面談したようです。
愚問会メンバーに対して、お祝い(もしかすると労い?)の言葉と共に朝永博士はその後の研究方向性を暗示する話をされ、数式まで示されたとのことです。

その内容に対して早川氏は以下のような感想を記しておられます。「This comment implies an idea he asked us to develop, although I was not clever enough to understand his intention.」意訳すると「(朝永博士の)このコメントは私たちが進むべき方向性を暗示していたが、彼(朝永博士)の意図を理解できるほど私は賢くなかった。」となるでしょうか?

名古屋大学の学長にまでなった早川氏が理解できなかったのですから、浅学菲才の私などに早川ノートのその内容が解釈できるわけがありません。
が、どうやら二つの電子が存在したときにそれぞれが発生する電界の影響の取り扱い方法を論じていることは分かります。そして、さらにどうやらですが、超多時間理論とは別の内容のようです。

島田市を愛してやまない私が、やや無理のある推論に牽強付会を行う愚をご容赦頂くとすれば、朝永博士が繰り込み理論の発案に達した可能性のある期間を1945年4月初めから同年9月3日とさせて頂きたいと考えます。
であれば、朝永博士が島田単身赴任中に繰り込み理論の発案に至った可能性は時間の割合として約8割となります。

このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

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