
弘法大師の子どもの頃。こちらから転載させて頂きました。

空也律師像。こちらから転載させて頂きました。
島田市の岸町にある大日山瞰川寺はかなり異色の仏教寺院です。
今回はその歴史について考察してみたいと思います。
資料「【しまだ市民遺産】大日山」、「島田風土記 ふるさと六合」、「大日堂の縁記」、「大日堂縁記 追記」などに依拠して進めます。
上記資料によると、大日山には二体の大日如来像があって、火の粉を浴びた昔のものと2007年に遷座したものとのことです。
この場合の「遷座」は大日山の外から移動させて安置したと解釈しました(※)。
大日如来は未(ひつじ)年生れと申(さる)年生れの守り本尊ですが、大日山では子供達も守ってくれるようです。
火の粉を浴びた大日如来像は「弘法大師一刀三礼(いっとうさんらい)の作といわれ」とあります。
これは千葉県の成田山新勝寺の御本尊不動明王像と同じ表現です。
新勝寺の不動明王像は嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻開眼されたそうなので、遅くとも嵯峨天皇在位最終年の823年までに作られたと考えられます。
大日山の大日如来像も同様だとすると、1200年の歴史が刻まれているということになります。京都観光のキャッチフレーズと同じです。
※)仏具店から納品されたものを高野山蓮華院にて入魂式を執り行った後に大日堂に安置頂いたという経緯のようで、「入魂」したものを高野山から「遷座」したという意味合いと思われます。
続いて、「三代の法孫空也律師が師命を帯び真言密教弘宣流布のため岸村奥ノ谷に錫を留め(=滞在し)、真言宗竜雲山瞰川寺を建設」とあります。
空也上人は922年に尾張国分寺にて出家し、「若い頃から在俗の修行者として諸国を廻り、『南無阿弥陀仏』の名号を唱えながら道路・橋・寺院などを造るなど社会事業を行った」とされます。
岸村に瞰川寺(川を見下ろす寺)を建設したのもその一環と思われます。「大日山=瞰川寺」は約1100年の歴史を刻んでいることになります。岸村の歴史も1100年以上ということですね。
時代は下って1676年(延宝4年)、その年の岸村の「本田高水帳」に「大日領1石」が記されています。これを以ってそれ以前からの大日山の規模が推定されるようです。
1706年には大日如来像が草堂(=草庵、草ぶきの家)から山腹に移され、現在地における堂宇建立が発願されたとのこと。
堂宇とは四方に屋根が張り出した建物のことだそうで、1713年に田中城裏鬼門除けとしての建物が完成したようです(※)。
この説明文に拠れば、大日如来像の遷座が本堂建立に先んじたことになります。
※)この時に大日堂が完成したとする説もあるようです。
当時の田中藩城主は内藤弌信(かずのぶ)という人で、大坂城代に栄転する直前の出来事だったようです。
ここで「発願」という言葉が大きな意味を持ちます。岸村の村民(岸村庄屋の森下三右衛門と成岡與左衛門という人が世話役だったとのこと)が「建物を建てたい」と願い出たということです。
そして、おそらくは、内藤氏が許可したはずです(大日如来像の由来を知ってその価値を認めたという説もあるようです)。
この起源により、大日山瞰川寺は最初から無住寺院(住職のいない寺)だったと思われます。爾来、「村民の、村民による、村民のための大日山」の歴史が刻まれてきました。
さらに、1768年に大日堂が完成します。
総工費は五十五両余で、田中城お抱え棟梁の木原光右衛門(藤枝宿白子町(現在の本町))という人が携わったそうです。
田沼意次が相良城主および老中になった頃です。関係があったのでしょうか?約260年前です。
大日堂は、残念なことに、1973年に火事(タバコの火の不始末という説があります)で焼失してしまいましたが、燈籠一対(道悦島村庄屋の塚本藤蔵という人による寄付)は現存しています。
仁王門は1802年完成、石垣は1806年完成、鐘堂は1814年完成と、現存する建築物はいずれも築200年を刻んでいます。
身近にあったので今まで気づきませんでしたが、改めて調べてみると、現在の大日山に残る大日如来像や建築物は大変に貴重な歴史を刻んでいることが分かりました。そして、それは岸村の、現在の岸町の、人々の祈りの積み重ねの上に成し遂げられてきたものと感じ入りました。
補記:大日如来を本尊としているので基本としては真言宗の寺院なのでしょうが、瞰川寺を開山した空也上人は超宗派的立場を保った人物と言われています。現在は曹洞宗の僧侶に祈祷や読経を依頼していますし、新しい大日如来像の入魂は高野山で行われました。ですので、大日山は村民に立脚した超宗派的寺院だった、そして現在もそうであると位置付けられるのが妥当と考えます。
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