ntn06: アイザック・ニュートン 06 学校教育と田園が生んだ天才

1672年にニュートンが王立協会に寄贈した反射望遠鏡(レプリカ)。こちらから転載させて頂きました。

トリニティカレッジのグレートコート。ニュートンの研究室はこの中庭に面していたといわれます。こちらから転載させて頂きました。

1667年4月ニュートンはトリニティカレッジに戻ります。

宗教上の問題(トリニティカレッジなのに反三位一体が持論)に悩みながらも1668年に修士号を取得します。
翌年、「ルーカス数学教授職」に就任(26歳)。バロー教授は自らの地位をニュートンに譲る形となりましたが、同教授は後の1672年にトリニティカレッジの学長に就任します。

ニュートンはこのルーカス数学教授職の地位により、研究に専念できる時間とリソースを得たとのことです。
トリニティカレッジの部屋(グレートコートの個室)で実験や執筆を行い、『プリンキピア(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica (Mathematical Principles of Natural Philosophy))』(1687年)の基礎を築いたそうです。

授業の方は学生に不人気で、教室はいつも空席だらけで、講義を15分間で切り上げることもしばしばだったようです。
なんということでしょう。教育の方はさっぱりで、まさに研究のみに集中していた教授人生だったと思われます。

また、1704年に『光学(Opticks)』を出版します。原理だけでなく、近代的内容も含む名著となっています。


本シリーズの結論は以下の通り。

ニュートンは裕福な貴族で自らの館にこもって研究をつづけた人では決してなかった。

貧困ではなかったけれど複雑な家庭環境の生れ。教養のある祖母に育てられた幼少期と、母の英断により進学したグラマースクール(原則的に学費無料)。そこでの「学問の入口に立つため」のラテン語の習得。

苦学生で始まったケンブリッジ大学での生活も、学術的自由の下に優れた図書館で先端文献を読み漁る日々。ペスト禍を避けるために帰郷した寒村での重要な着想。

トリニティカレッジに戻った後は研究に専念できる大学環境の下、学問に邁進する生活。

ニュートンはイングランドの教育システムとリンカーンシャーの田園が生んだ天才だったと言えるのではないでしょうか?

本シリーズはこれで終了です。このシリーズの初回はこちらになります。

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