
後漢墳墓の壁画(紀元一世紀)。こちらから転載させて頂きました。

紀元2世紀ころの東アジア。後漢の版図が示されています。広州やベトナムの一部も含まれているようです。こちらから転載させて頂きました。
ローマ帝国からの使者が広州を訪れたという記録があるそうです。紀元2世紀、日本列島は弥生時代とされる時期です。
紀元166年、ローマ帝国の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスが派遣したという人物が入貢したと「後漢書」にあるのだそうです。
訪問地は広州という説もあるし、当時の後漢の一部だったベトナムの中央部だったという説もあるようです。ちなみに、マルクス・アウレリウス皇帝は哲学に明るく軍事よりも学問を好んだ哲人君主だったそうです。
その使者の持参物がローマ帝国のものではなかったため、本当にローマ皇帝の使者だったかどうかは怪しいとする指摘もあるようです。
ここで、AIにサラ問をしました。ローマ皇帝の使者だったとしたら、その旅路は陸路だったのか海路だったのかと。回答は海路の可能性が高いということでした。当時、紅海を出発点にインド洋を渡りマレー半島を回って中国に到達する交易路が確立されていて、その使者もそれを利用した可能性が指摘されていました。
いろいろと不確かな事柄が含まれる記録ですが、私は交易路に注目しました。いわゆる「海の道」です。
海路で交易が行われるには船舶の発達が不可欠です。
当時のローマ帝国には、地中海で用いられた船舶ですが、積載量400トンのものまで存在したことが分かっています。そしてアレキサンドリア。当時の地中海貿易と文化の中心地でした。
アレキサンドリアと紅海を結ぶ交易はとても盛んだったそうです。であれば、地中海の船舶技術の幾ばくかが紅海へ、そしてインド洋へと伝わっていった可能性は高いものと考えられます。
海の道の他の端は古代中国です。
中国にもそれなりの船舶技術があったはずです。インド洋を渡り切るような船舶があったという記録は無いようですが、少なくともマレー半島まで到達する沿岸海路は確立されていたとのこと。
その先の台湾、朝鮮半島、日本列島への船舶交易は、当時、どのような状況だったのでしょうか?
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