19cw056: 19世紀の戦争_056_クリミア戦争_1853年~56年_1_概要

(抜粋)ウイーン会議の後にしばらく静かだった欧州において、第一次アフガン戦争や第一次アヘン戦争が終結した1842年の約10年後にクリミア戦争が勃発します。ナイチンゲールの活躍や、現在の紛争と地域が重なるという意味でクリミア戦争の深掘りには大きな意義がありそうで、まずは概要を調べてみることにしました。

最初の戦争報道写真『死の陰の谷(The Valley of the Shadow of Death)』。撮影者はロジャー・フェントンで撮影年は1855年。内容は砲弾が散乱する谷間の道路。この写真には兵士の姿はないものの、道路一面に転がる砲弾が、戦場の恐怖を静かに物語っているとのこと。「死の陰の谷」という題名は、旧約聖書・詩篇23篇の一節に由来し、イギリス兵がこの場所をそう呼んでいたことから名付けられたそうです。現在では世界で最も有名な戦争写真の一つとされています。こちらから転載させて頂きました。
イスタンブールにある聖ゲオルギオス大聖堂 (コンスタンディヌーポリ)。1600年頃からコンスタンディヌーポリ総主教の座所。コンスタンディヌーポリ総主教は全世界の正教会信徒の精神的な指導者と認識されているそうです。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

 ここ数回はアメリカが起こした米墨戦争(1846年~48年)とその背景や、当時のアメリカ社会について調査を行いました。

 19世紀前半のアメリカは「明白な天命」という思想の下で侵略に次ぐ侵略という戦争国家だったようです。

 
 さて、今回からはヨーロッパに戻ります。

 ウイーン体制の下、欧州列強はギリシャ独立戦争(1821年~29年)を除くと※、戦場をアジアに求めて(?)いたようです。
※)オスマン帝国をアジアとすればギリシャ独立戦争の戦場も半分はアジアですが、、。

 ですが、第一次アフガン戦争や第一次アヘン戦争が終結した1842年の約10年後にクリミア戦争が勃発します。

 ナイチンゲールの活躍や、現在の紛争と地域が重なるという意味でクリミア戦争の深掘りには大きな意義がありそうです。

 例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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0)はじめに
 クリミア戦争(1853~1856年)は、ロシア帝国と、オスマン帝国・イギリス・フランス(後にサルデーニャ王国も参加)との間で戦われた戦争。

 名称は主戦場となったクリミア半島に由来。

1)概要
時期:1853年~56年
主戦場:クリミア半島(現在はロシアが実効支配)
結果:ロシアの敗北
講和条約:パリ条約(1856年)

2)当時のヨーロッパ情勢
 19世紀半ばには、オスマン帝国(トルコ)が衰退し、「ヨーロッパの病人」と呼ばれていたそうです。

 一方、ロシアは南方への進出を目指していたそうです。ロシアの目的は、
・黒海から地中海へ自由に出ること
・バルカン半島への影響力拡大
・正教徒の保護を名目としたオスマン帝国への介入
だったとのこと。

3)戦争の原因
(ア)ロシアの南下政策
 ロシアは長年、
・黒海
・ボスポラス海峡
・ダーダネルス海峡
を経て地中海へ進出することを望んでいた※そうです。
※)「進出の目的」まで深掘りする必要がありそうです。

 しかし、その海峡を支配していたのはオスマン帝国だったとのこと。

(イ)聖地管理問題
 エルサレムの聖地で、
・カトリック(フランスが保護)
・ギリシャ正教(ロシアが保護)
のどちらが管理権※を持つかが争われたそうです。
※)この表現はあまり正しくないようです。エルサレムの聖地を管理していた正教会の中心は、エルサレム総主教庁で、東方正教会の自治教会の一つであり、伝統的にギリシャ系の聖職者が総主教や高位聖職者を務めてきたという経緯があったそうです。ロシアは東方正教会の最大の強国として、オスマン帝国内の正教徒と聖地における正教会の権利を保護すると主張していたようです。

 これは表面的な原因であり、実際には大国間の勢力争いだったそうです。

(ウ)イギリス・フランスの警戒
 もしロシアがオスマン帝国を支配すれば、地中海やインドへの航路に大きな影響※が生ずるため、イギリス・フランスはロシアの南下を阻止しようとしたそうです。
※)換言すれば「利権を失う」ということですかね。

4)戦争の経過
 1853年にロシア軍がオスマン帝国領※へ侵攻。
※)オスマン帝国領と言ってもお広おございます(笑)。これには改めてコメントします。

 翌1854年、イギリス・フランスが参戦。

 連合軍はクリミア半島※へ上陸し、ロシア海軍基地セヴァストポリを包囲。包囲戦は約1年間続いたそうです。
※)ロシアが侵攻した場所とは異なるようです。

5)有名な出来事
(ア)軽騎兵旅団の突撃
 命令の誤解から、イギリス軽騎兵約600名が正面攻撃を行い、甚大な被害(死傷者278名)を受けたという現在でも軍事史上有名な出来事。場所はクリミア半島。

(イ)ナイチンゲール
 フローレンス・ナイチンゲール※はこの戦争で最も有名になった人物だそうです。
※)1820年フィレンツェ生まれなのでクリミア戦争時は30歳代前半。裕福な家庭の子女で幼少期は贅の限りを尽くした教育を受けた模様。デュッセルドルフの病院付学園施設での看護婦教育を受けたのちにロンドンの病院に就職(無給)し、やがて夫人病院長に。ローマで知り合ったシドニー・ハーバートが戦時大臣となり、クリミア戦争の事態を重くみて、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼したというのが経緯のようです。

 彼女は野戦病院で
・衛生状態の改善
・看護制度の改革
を進め、近代看護学の基礎を築き、「ランプを持つ婦人」と呼ばれているそうです。

(ウ)写真報道
 この戦争は史上初めて本格的に写真で記録された戦争の一つとのこと。
 また、新聞記者が前線を報道した最初期の戦争でもあるそうです。

6)結果
 1856年にパリ条約が締結された。その主な内容は、
・ロシアは黒海で軍艦を保有できない
・黒海は中立化される
・オスマン帝国の独立が列強によって保証される
であり、ロシアは大きな外交的敗北を喫したそうです。

7)ロシアへの影響
 ロシア皇帝アレクサンドル2世は、この敗北によって

「ロシアは近代化しなければ西欧列強に勝てない」

と痛感たそうで、その結果、1861年に農奴解放令を発布し、軍制・司法・教育など大規模な近代化改革を進めたそうです。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 筆者は約50年前に高校の世界史の授業でクリミア戦争を習いました。

 上記の項目の中では、聖地管理問題、軽騎兵旅団の突撃、写真報道の三点はこれまで知りませんでしたが、その他の概要は高校の授業で聞きかじった記憶があります。

 ですので、「クリミア戦争」に対する筆者のおおまかな解釈は上述の内容に沿ったものでした。

 ですが、戦争勃発前の状況や実際の戦地については「曖昧」ではないか今では感じています。

 この「19世紀の戦争」シリーズを記す中で、戦争の要所をつかみつつあり、その理解が深まったためかもしれません。

 そこで、戦争前のオスマン帝国の状況や戦争の発端について深掘りしてみることにしました。

 次に続きます。

 このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
 このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。
 ミニシリーズは以下ようにまとめてあります。
・「フランス革命戦争
・「ナポレオン戦争
・「ウィーン会議後の戦争(テキサス独立戦争ほか)
・「第一次アフガン戦争」 
・「第一次アヘン戦争」 
・「アメリカの戦争(米墨戦争ほか)」 
・「クリミア戦争」  

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