
終戦直後の東京文理科大学研究室(大久保)。こちらから転載させて頂きました。
1941年に東京文理科大学の教授となった朝永振一郎博士は自らの研究チームの整備に着手されました。
最初の助手と言われる後藤(金沢)捨男氏(後に東京学芸大学教授)、同じく田地隆夫氏(後に金沢大学と広島大学で教授)、伊藤大介氏(後に埼玉大学教授)が1942年に東京文理科大学関係者として朝永チームに参画しました。
後藤氏と田地氏については、職員として加わったのか、学生として加わったのか、資料が得られなかったので、不明です。1942年入学の伊藤大介氏は学生として参加したと回顧されています。
次に、1944年初夏、東京大学(当時は東京帝国大学という名称でしたが、本論では東京大学で統一します)の学生がチームに加わります。
木庭(こば)二郎氏(後に京都大学教授)、早川幸男(さちお)氏(後に名古屋大学学長)、福田博氏(後に北海道大学教授)、宮本米二氏(後に東京教育大学教授)の四名です。
東京文理科大学教授の朝永博士の下に東大生が参画することになった事情には説明が少し必要です。
東京大学の量子力学担当の落合麒一郎教授が1944年春に病気になり、そのために学生指導が難しくなりました。
落合教授はハイゼンベルク博士門下の留学生としてライプツィヒ大学で朝永博士の先輩だった方です。
その縁か、朝永博士が東京大学の非常勤講師となり量子力学関連の講義の代行を行ったのが上記の四学生にとっての端緒だったようです。
東京大学で開催されていたマグネトロン研究会や理化学研究所で開催されていた中間子研究会、これらの会合で朝永博士となじみの深かった小谷博士の推薦もあったのかもしれません。
そして、朝永博士の下での輪講(卒業研究?)を選んだのも上記の四名だったのです。
なお、当時の東京文理科大学は現在の文京区大塚にありました。また、当時の理化学研究所は文京区駒込にありました。いずれも東京大学の本郷キャンパスから徒歩30分圏内です。教官、学生、研究者の往来はかなり活発だったのではないかと推察されます。
以上の方々は戦後の「爆発」と称される朝永チームの研究成果の大量輩出で活躍され、論文の筆頭著者や共著者として名前を残されています。
朝永博士の繰り込み理論研究はこの方々との関係が始まった1942年以降にスタートしたと考えられます。先に述べた超多時間理論の論文掲載が1943年春でしたので、その本格化は東大生が参画し始めた1944年夏以降ではなかったかと推察されます。
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