朝永振一郎博士と島田市 011 東大生による愚問会の発足と散会

朝永博士の講義(1960年)。こちらから転載させて頂きました。

1944年初夏、朝永振一郎博士の下に集った東京大学物理学科の学生4名(木庭二郎氏、早川幸男氏、福田博氏、宮本米二氏)は、朝永博士の講義について「期待外れ」という印象を抱いたようです。

というのは、量子力学の先駆的研究によりすでに国内では有名だった朝永博士の講義でありながら、基本的な内容に終始したためです。
旧制とはいえ大学2年生が朝永博士の講義に失望するとは、ある意味ですごいことと思われます。当時の量子力学の最先端を講義内容に期待していた反動としての失望だったようです。

ただ、これが正しい情報かどうかわからないのですが、講義は隔週の「日曜日」に計5回行われたとのことです。
朝永博士は、東京文理科大学の講義や業務との掛け持ちだったので、東京大学には日曜日しか行けなかったのかもしれません。また、学生も勤労動員のために、日曜日しか時間が無かったようです。
輪講形式の授業も合計4回(1945年8月におまけの1回があったそうですが、、)でした。

しかしながら、講義以外の場面で朝永博士の指導に傾倒していた上記4名は1944年11月に「愚問会」を結成します。
これは、朝永博士不在の講師室に集まった4名が、空襲にもめげずに勉強会を開催し、互いに疑問を投げかけた会合だったようです。

朝永博士もこの頃になると先進的文献を東大生に推奨するようになっていたようで、1938年イタリア誌掲載のパウリ博士(Wolfgang Ernst Pauli)とフィエツ博士(Markus Eduard Fierz)による論文(二人ともスイス人で文章はドイツ語)に当たったと早川幸男氏は回顧されています。

この愚問会も、冬季通例の朝永博士の体調不良や米軍による空襲の激化、焼け出し、などで1945年3月には一旦の散会となったようです。
福田博氏は愚問会発足直後の1944年12月に、宮本米二氏は1945年4月に、それぞれ召集され、所属は軍隊となりました。
病気がちだった木庭二郎氏は1945年3月の東京大空襲で自宅が消失、物理学科の疎開先だった長野県の諏訪に移動しました。
早川幸男氏は、この頃、中央気象台(気象庁の前身)宇宙線研究室(当初の所在地は不明ですが、1945年5月に空襲で被災すると同年7月に長野県小諸に疎開したようです)での勤務となりました。

それでも、1945年3月ころまでは、病室の朝永博士を訪ねて有益な助言を得るなど、愚問会の活動はとても熱心なものだったようです。

なお、戦後に愚問会は再開され、後には最先端研究者の交流の場となったとのことです。

このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

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