krs03: 「喧嘩両成敗」を考える (3)武家諸法度

 武家諸法度。こちらから転載させて頂きました。

2026年元旦に「喧嘩両成敗」のことを考え始めました。が、想定以上に深い内容となったので、分割することにしました。

前回は、江戸時代の幕藩体制(地方分権)の下での喧嘩両成敗を論考しました。対象は庶民の争いごとについてでした。

今回は江戸時代の「藩同士の喧嘩」がどのように扱われたのかを見てゆきます。

今回もChatGPTに質問する形で調査しました。

まず第一に、藩同士の喧嘩は個人の喧嘩とはまったく別次元の問題として扱われたとのこと。藩同士の「喧嘩」は原則として認められず、起きた時点で「反乱・無断軍事行動」に極めて近い重罪と考えられていたそうです。

以下に概要をまとめます。

武家諸法度(元和令(1615年)以降)には、藩同士の争いに関わる重要な原則が含まれているそうで、代表的な条文は以下の趣旨となっているようです。
ア)私闘の禁止(「私に兵を動かすこと」を厳禁、幕府の許可なく戦争・報復を行うことは禁止)
イ)領地争いは幕府裁許(国境争い・訴訟は必ず幕府に訴え出る)
ウ)城郭・軍事行動の制限(城の修築や兵の動員も幕府の許可制)

武家諸法度に対する実際の処理原則が「喧嘩両成敗」だったようです。

これについてもう少しかみ砕いてみましょう。

1)「喧嘩」と「戦」の区別(江戸時代的感覚で)
》江戸時代の公式秩序では、「武力行使=将軍の専権事項」だったそうで、大名は私的に武力を使う権利を持たないとされていたようです。このため、個人同士の争いは「喧嘩」でしたが、藩(大名)同士の争いは事実上「戦」の扱いとなったとのこと。「小規模だから喧嘩」という発想は、幕府側にはほぼなかったそうです。

2)藩同士の「喧嘩」はなぜ許されないのか
》理由その1:藩同士の喧嘩は幕藩体制の根幹を壊すものと考えられていて、幕府だけが「武力の最終使用権」を持つということになっていたようです。すなわち、藩同士の武力衝突はすなわち「幕府の主権侵害」だったようです。
》理由その2: 「戦国」に逆戻りする危険を考えたようです。小競り合いを認めると、全面戦争に発展しかねないとして、幕府はこれを最も恐れたとのこと。

3)実際に起きたらどうなるか?
》原則的な扱い:即時の停戦命令が発せられ、双方の大名に厳重な処分が下されるようです。例えば、改易、減封、謹慎、城の破却 など。
》「どちらが悪いか」以前に、両方アウトとのこと。ここでは、最も強い意味での「両成敗」が適用されたようです。
⇒理由を問わず「双方厳罰」ということだったようですね。

4)有名な近い例:赤穂事件(参考)
》赤穂事件は藩同士ではないのですが、考え方がよく表れているそうです。
》江戸城内での刃傷事件⇒浅野内匠頭の即日切腹。吉良側は無罪。「浅野側が一方的に悪い」とされたのは周知のとおり。 藩同士の武力衝突なら、さらに厳しい扱いになります。
⇒武力行為を行ったことが、理由の如何を問わずに「悪い」ことだったという判断が下されたということですね。

5)「例外」はあったのか?
》ほぼ唯一の例外は幕府の命令による軍事行動だったようです。国境警備、一揆鎮圧、他藩への出兵(助勢)、この場合のみ、武力行使は正当化されたそうです。

6)まとめ
江戸時代に「藩同士の喧嘩」という概念は、制度上ほぼ存在しないと考えるべきのようです。起きた時点で私闘ではなく無断戦争ないし謀反に近い重罪とされ、判断基準は正邪ではなく秩序を乱した事実に依るものだったとのこと。

一言で言えば、「藩同士の喧嘩」はイコール「戦」で、幕府の主権を侵害する行為と見做され、厳罰が下るという状況だったということのようです。

「個人vs江戸幕府」の力関係は後者の圧倒ですが、「藩vs幕府」の力の差はそこまで大きくないため、「有無を言わさず喧嘩両成敗」という室町時代の個人に対する縛りと同じ形になっていたということではないかと理解しています。

とは言っても、各藩は一定レベルの武力を所有していましたので、それに対する抑止が如何様に働いていたかを知りたいところです。

また、「藩と対外勢力との喧嘩」という薩英戦争や下関戦争に対する幕府の考え方も知りたいところです。

》》》》このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。 

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