
公事方御定書。こちらから転載させて頂きました。
2026年元旦に「喧嘩両成敗」のことを考え始めました。が、予想以上に深い内容となったので、分割することにしました。
元旦の前回は、日本における「喧嘩両成敗」の起源が室町時代にあること、室町時代と江戸時代とでは意味合いが異なること、などについて述べました。
よくよく考えると江戸時代は幕藩体制の地方分権でしたので、江戸幕府が全国統一の法律があった訳ではないはずです。今回はそれを勘案した論考としました。
なお、調査はChatPGTに質問する形で行いました。
結論を先に言えば、江戸時代の「喧嘩両成敗」は全国一律の制度ではなかったようですが、全国的に「共通した考え方(規範)」としては広く共有されていたとのこと。
(1)幕藩体制と法の基本構造
江戸時代は幕藩体制(地方分権)であり、刑事制度は全国統一ではないのが原則。
幕府⇒江戸・大坂・京都などの直轄地、全国の大名・武士に対する基本的な統制(武家諸法度(※)など)。
各藩⇒自分の領地では藩法(家法・分国法)を持つ、裁判・刑罰の最終判断も原則として藩ごと。
(2)喧嘩両成敗は「全国法」だったのか?
答:全国一律の成文法ではないとのこと。
江戸時代に「喧嘩は『すべて』両成敗とする」という全国共通の法律は存在しなかったようです。
幕府法(公事方御定書(※)など)でも、原因・先後・正当性を吟味する姿勢が基本だったとのこと。
※)そもそも、公事方御定書の制定は江戸中期の1742年です。他方、最初の武家諸法度が発せられたのは1615年で「大阪夏の陣」の年です。庶民の刑事は後回しとして、大名対策を最優先としたようです。
それでも「全国的」あるいは「江戸時代にも喧嘩両成敗があった」と言われる理由は何でしょうか?
理由1:前近代的規範としての継続
》室町から戦国期の慣行が社会常識として残存
》特に武士社会では「私闘は両者に責任がある」という感覚が根強い
理由2:藩法で採用した藩が多い
》各藩が独自に、「喧嘩をした者は原則双方処罰」「ただし事情によって軽重を分ける」 といった規定を置く例が多かった。結果として、似た運用が各地に広がった。
理由3:治安思想としての共通性
》幕府も藩も共通して重視したのは私闘の禁止、秩序の維持。そのため、「勝ち負けよりも、喧嘩したこと自体が罪」 という考えは全国的に共有された。
法律は運用が重要なのは現代も変わりません。実際の運用はどうだったのでしょうか?
江戸時代の裁きは、かなりケースバイケースだったようです。
先に手を出した者 → 重罰、正当防衛 → 減刑・無罪の可能性、両者に非がある → 両成敗的処分。
身分差(武士・町人)も強く影響。
まとめると、
「自動的に両成敗」ではないのが室町時代との決定的な違い。
「江戸時代の喧嘩両成敗は、法律ではなく“共通の裁判感覚”だった」
ということのようです。
徳川幕府の強権と治安が「事情聴取や検分をより重視」というスタイルを可能としたのかもしれませんね、庶民レベルでは。
また、いわゆる偽旗行為(この場合は、第三者が当事者の喧嘩を誘発させ当事者処罰の後に漁夫の利を得るという行為)が頻発し、それを防ぐための方策とした可能性もあります。
それでは本題の「江戸時代の藩同士の喧嘩はどう扱われたのか?」を次回に見てゆきたいと思います。
》》》》このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。
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