
回想の朝永振一郎』(みすず書房)。こちらから転載させて頂きました。
ここでは、先の推論の結論「ノーベル賞の繰り込み理論が島田で発案された可能性は80%」の意味を考えてみたいと思います。
一般に、優れた研究成果が輩出された際、その研究を実施した個人およびグループは、当然、賞賛されます。と同時に、その研究が実施されるための環境を整えた人々も称賛されます。
実験による研究では、多くの場合に、実験装置の整備が必要で、そのための費用が必要です。
ノーベル賞の対象になるような「他の誰もがやっていない」という新規性、すなわちリスクの極めて高い研究の場合、周囲の理解が浅いと装置整備の費用を得ることができません。「投資は無駄、ものにならないかもしれない」という危険性が高い野心的研究に対しては上司や周囲の理解が必要です。これらの人々の勇気と判断力も称賛されるべきという考え方です。
それでは、理論研究はどうでしょうか?朝永博士の繰り込み理論の研究はまさにこの理論研究でした。
「理論研究は紙と鉛筆があればできる」とよく言われます、朝永博士は加えて計算尺を用いておられたようですが、装置整備の費用はほとんど不必要そうです。
むしろ、周囲にどのような人々がいるかを含む環境が肝要ではないでしょうか?
朝永博士は中間子研究会や物理学会で湯川博士とよく議論を交わされたようです。また、ドイツ留学中も日本の湯川博士のことが念頭にあった旨、書物に記しておられます。
中学、高校、大学、無給助手時代、これらのそれぞれで机を並べた湯川博士の存在はもちろん、ハイゼンベルク博士との交流や仁科芳雄博士の下での理化学研究所生活も朝永博士の環境の一つだったといえるでしょう。
肝心の1945年、朝永博士にとっては空襲に追われる日々からの解放は「研究環境」という意味で大きかったのではないかと考えられます。
また、京都の自然に親しむ少年時代を送られた朝永博士は、生物学者も選択肢とされたほど自然がお好きだったようです。
『回想の朝永振一郎』(みすず書房)の表紙は朝永博士の描かれた荻窪1丁目の田園風景です(荻窪には一時住んでおられたようです)。
また、さらなる郊外の武蔵野市の境南町に住まわれた際も「堆肥のにおいからふるさとを思い出した」と残しておられます。大学のあった都心ではなく、郊外に住居を求められた朝永博士の嗜好がなんとなく分かります。
そのような朝永博士に1945年の島田の環境はどのように貢献したでしょうか?
先に紹介した通勤路「朝永ノーベルロード」は田園の道だったはずです。
大井川の夕焼けとその後に空を染める群青色も朝永博士の目に映ったはずです。
もちろん、80%も概算でしかなく、発案は諏訪や御影、あるいは、京都への列車の中での出来事だった可能性も十分にあります。
前後の東京在住時だった可能性もゼロではありません。
が、島田を愛する一市民としての願望は、大井川の薫風を浴びながら歩いておられた朝永博士が繰り込み理論の切掛けを得たものと信じたいところです。
逆に、島田の人々を含む環境は高度な科学技術を研究・開発するために十二分な資質を有すると結論してもよいと考えます。
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