imgw03: 駿河國守護 今川 03 今川五兄弟

小夜の中山の夜泣き石。こちらから転載させて頂きました。

このシリーズでは島田に縁深い今川氏の源流に遡った論考を進めています。

今川第二代の今川基氏(1259-1323)が三河國から遠江國に進出したところまで述べました。また、基氏には5人の息子(頼国、範満、頼周、法折、範国)がいたことも記しました。

1333年に鎌倉幕府が滅んだ際、足利の血を引く今川は足利尊氏と後醍醐天皇の側に就いたようです。2年後(1335年)、鎌倉幕府再興のために北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児北条時行が信濃國で挙兵した反乱「中先代の乱」が生じます。

その中で次男の今川範満が率いる軍が小手指ヶ原(埼玉県所沢市)で時行軍に破れ、範満は戦死します。

時行軍に鎌倉を奪還され駿河國まで勢力を伸ばされた足利尊氏が京都から鎌倉に向かう途中、今川頼国(長男)が尊氏に同道し小夜の中山で敵将を討ち取る殊勲を立てたそうです。その後の鎌倉を目指した相模國の戦いでは今川頼国と今川頼周(三男)が戦死してしまいます。

今川にとっては約一か月間に三兄弟が戦死する悲惨な戦乱でしたが、足利尊氏は鎌倉奪還に成功します。

五男の今川範国(1295-1384)は、後醍醐天皇が開始した建武の新政から足利尊氏が離反(1336年)すると、同族の誼でこれに従い、各地で軍事活動を行ったそうです。そして、同年(1336年)に遠江國守護職、次いで駿河國守護職を与えられたとのこと(1338年という説もあります)。

四男の法折は出家していて、鎌倉の円覚寺や建長寺の住職を歴任し、出版事業で五山文学にも貢献したそうです。

五男の今川範国は「守護」という地位を手に入れるとともに、遠江國と駿河國のトップに就任することになりました。

とはいえ、室町幕府の成立(1338年とされる)後も南北朝の混乱や幕府の内乱が続く慌ただしい時代のことで、遠江國も駿河國も安定した統治への力量が求められたのではないかと思われます。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの第一回目はこちらです。

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