imgw04: 駿河國守護 今川 04 今川範国 その一

今川範国の書状。伊達将監への書下(かきくだし)とのこと。こちらから転載させて頂きました。

このシリーズでは島田に縁深い今川氏の源流に遡った論考を進めています。

前回は、今川第二代の今川基氏(1259-1323)の五男の今川範国(1295-1384)が遠江國守護および駿河國守護を1336年(または1338年)に任命されたところまで述べました。

今回は少し遡って足利尊氏と今川範国の関係をより詳細に見てゆきます。こちらを参考にさせて頂いています。足利尊氏についてはNHK大河ドラマ「太平記」の真田広之氏をイメージして頂けると幸いです(笑)。

1333年7月に鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は天皇親政を目指します。
そこへ、鎌倉幕府再興の目指した北条時行が1335年7月に信濃國で挙兵し「中先代の乱」を起こします。時行軍は、足利尊氏の弟の足利直義が治めていた鎌倉を占領し、駿河國まで勢力を伸ばします。
京都にいた足利尊氏はこれを知り、勅状を得ないまま東に向かって出陣し、足利直義や今川兄弟などと共に東進して8月中旬には鎌倉を奪還します。
ところが、足利尊氏は武家政権創始の動きを見せ、同年9月末に後醍醐天皇から離反し、年末には京都に進軍を始めます。

1336年1月、足利尊氏を朝敵と断じた後醍醐天皇は討伐軍に足利尊氏の追討を命じます。
今川範国は足利尊氏に従いすさまじい戦いを繰り返したそうです。

足利尊氏は京都に入りますが、追討軍との戦いに敗れて同年2月には九州に逃れます。今川範国はこの際も足利尊氏に従っていたとされます。

足利尊氏は九州を中心に勢いを立て直し、同年6月には京都に戻り、年末には建武式目17条を定めます。
対して後醍醐天皇は大和國に逃れ南朝を樹立し、南北朝の内乱が始まりました。後醍醐天皇は改めて足利尊氏討伐を新田義貞や北畠顕家らに命じたとされます。

鎌倉を占領していた北畠顕家(1318-1338)は1338年1月に西進を開始し上洛を目指します。足利尊氏はその大軍を迎え撃とうと美濃の青野原(岐阜県大垣市)で戦いになりましたが、圧倒的な戦力の北畠軍に対し今川軍は背後からの後詰め攻撃により戦局を足利軍に有利に展開させたそうです。

この戦功により、今川範国は駿河國のほか数十カ所の所領を与えられ、遠江國と駿河國の2カ国の守護職に任じられたとのことです(今回の説では守護就任が1338年となります)。
どちらも南朝方の強い地盤であり、駿河安倍城の狩野氏や遠江井伊城(三岳城)の井伊氏には後醍醐天皇の皇子の宗良親王(むねよししんのう)らが派遣されたそうです。足利尊氏としては十分信頼の置ける一門の今川氏に期待し、これらの地の守護に補任したとのことです。

1336年の建武式目制定を以って室町幕府の「事実上の成立」とするようですが、足利尊氏が征夷大将軍に任命されたのは1338年です。室町幕府の守護任命権は将軍にあったようですので、今川範国の守護就任の正式発布がこの1338年であり、1336年段階ではいわゆる「内示」ではなかったかと思われます。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの第一回目はこちらです。

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