imgw06: 駿河國守護 今川 06 今川範氏

今川範氏の墓と言われている慶寿寺(島田市大草)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。こちらから転載させて頂きました。

慶寿寺の鴟尾(しび)に今川の家紋。こちらから転載させて頂きました。

このシリーズでは島田に縁深い今川氏の源流に遡った論考を進めています。

前回は、今川範国(1295-1384)が嫡男の今川範氏(1316-1365)と共に遠江國を平定し駿河國に乗り出したこと、その際の拠点が岸城(島田市)だったことを記しました。

今回は今川範氏をを中心に据え、駿河國平定の経緯を追ってみたいと思います。

今川範氏は1338年に駿河國守護となった父親の今川範国と共に岸城※を構え、遠江國から駿河國へ進出する機会を伺います。
※)南北朝時代の山城は基本的に守備専門だったようです。岸城も山の上に設けられましたので、「周囲の敵方からの守備」を重視しつつ駿河國への楔として位置付けられたのではないかと考えられます。

1340年に遠江國の南朝勢の平定に成功した今川範国・範氏の親子は駿河國の平定に着手します。

1350年には観応の擾乱が発生します。
足利政権の内紛で、各地で戦闘が繰り広げられましたが、1352年の薩埵峠の戦いは足利尊氏と足利直義の兄弟の直接対決でした。ここで骨肉の争いに雌雄が決します。今川範国・今川範氏・今川貞世(1326-1420:範氏の弟)が尊氏側で参戦し、足利尊氏の勝利に貢献しました。

観応の擾乱の前後の今川範氏の動きには諸説あるのですが、ここでは以下のように考えることにします。

今川範氏は父親とともに落合城(島田市)の鴇氏を討ち、野田の地を平定します。と同時に岸城(島田市)から東進を伺います。

今川範氏は1345年に野田(島田市大草)の地に慶寿寺を開山します。京都から和尚を招いたと伝えられているそうです。

観応の擾乱を挟んで今川範氏は大草に居館を設け駿河國の経営に着手します。

父親の今川範国は室町幕府の要職(引付頭人・訴訟機関の長)に1351年に就いたため、守護職を今川範氏が引き継ぎます。

並行して観応の擾乱で瀬戸谷(藤枝市)に退いた佐竹兵庫入道を破り、さらに徳山城に逃げて鴇氏と合流※したこの人物を追い討ちし、南朝勢を駆逐するとともに、駿河國の今川の勢力を不動のものとしました。
※)瀬戸谷からは笹間に抜ける山道があります。

今川範氏は藤枝葉梨郷に進出して1353年には花倉城を造成し、麓に居館と城下集落を設けたりしたとのことです。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの第一回目はこちらです。

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