(抜粋)インドの民主制を俯瞰する際には、独立運動出身の政治家達のインド軍に対する考え方の理解が肝要のようです。そこで、独立運動の中心であったジャワハルラール・ネルーについて、どのような人物だったのか興味が湧きました。それとともに、その人物像の把握を通じてインド民主制に対してより深い理解が得られるのではないかと考えた次第です。




前回は、イギリスからほぼ同時に独立したインドとパキスタンのその後を比較し、インドの民主制の特色を俯瞰しました。
独立後のパキスタンでは政治が安定せず、首相暗殺やクーデターが発生したそうです。
そのパキスタンとは異なる独立後を迎えたインドでは、独立時に方針を定めた独立運動出身の政治家達のインド軍に対する考え方が要点のひとつだったようです。
その中心であったジャワハルラール・ネルーについて、どのような人物だったのか興味が湧きました。
さらに、その人物像の把握を通じてよりインド民主制に対してより深い理解が得られるのではないかと考えた次第です。
例によってChatGPTに質問する形で調査しました。
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0)はじめに
ネルー(Jawaharlal Nehru, 1889–1964)は、単に「インド独立運動の指導者」というだけでなく、独立後のインドという国家の政治制度・経済政策・外交政策の基本方向を最初に形作った人物だそうです。
前回の「インドではなぜ軍が政治を支配しなかったのか」という話との関係を意識して整理すると、人物像がかなり見えやすくなるとのこと。
1)出身はかなり裕福なエリート層
ネルーは1889年、インド北部のイラーハーバード(現プラヤーグラージ)に生まれたそうです。
父モーティーラール・ネルーは有力な弁護士で、ネルー自身も15歳で英国へ渡り、ハロー校、ケンブリッジ大学※で学び、その後ロンドンのインナー・テンプル※※を経て、1912年(23歳)にインドへ戻ったそうです。
※)トリニティカレッジで自然科学を専攻したそうです。
※※)法律を学んで法廷弁護士の資格を得たそうです。「法家が国家を設計した」という形でしょうか?
ガンディーのような伝統的なインド社会から出てきた人物というより、
「英国の教育を受けたインド上層階級の知識人が、反植民地主義の政治家になった」
という性格があるそうです。
2)ガンディーの弟子ながらかなり違う思想
1916年(27歳)にガンディーと初めて会い、大きな影響を受けたそうです。
1920年代以降、独立運動の中心人物となり、何度も投獄されたそうです。
1929年にはインド国民会議(Congress)のラホール大会で議長を務め、「完全独立(Purna Swaraj)」を目標とする方向を強く打ち出したとのこと。
ただし、思想的にはガンディーと同一ではないそうで、ネルーは、
・ 科学・合理主義
・ 世俗主義
・ 社会主義的な経済思想
・ 近代工業化
・ 国家による計画経済
・ 宗教によらないインド国家
を重視。かなり大まかに、
ガンディー=倫理・農村・非暴力を重視
ネルー=近代国家・科学・工業化・世俗国家を重視
という違いがあったそうです。
3)特に重要なのが「世俗国家」という考え方
独立時のインドはヒンドゥー教徒だけの国ではなく、イスラム教徒、シク教徒、キリスト教徒など非常に多様な人々がいたそうです。
しかも、1947年にはインドとパキスタンへの分離独立に伴って、巨大な宗教間暴力と人口移動が発生※したそうです。
※)イギリス領インドが二つの国に分かれて国境線が引かれた結果、それまで同じ地域に暮らしていたヒンドゥー教徒・イスラム教徒・シク教徒が、宗教を基準にして互いを脅威とみなす状況に陥り、大量殺害と人口移動が連鎖したそうです。とりわけパンジャーブ地方では、宗教集団を標的とした殺害、村落の焼き打ち、略奪、女性への誘拐や性暴力が発生し、難民列車や移動中の集団も襲撃されたそうです※※。移住者は約1,400万~1,800万人、暴力などによる死者は数十万人から約100万人、推計によってはそれ以上とされているそうです。
※※)インドの(コメディ?)映画での場面を見たことが有ります。その時は知識が無く、なぜこんなことが起きたのか、、と不思議に感じていた記憶があります。
その中でネルーが目指したのは、
「『ヒンドゥー教国家』ではなく、宗教を国家の基本原理としないインド」※
だったそうで、インドの後の民主政治を考える際に非常に重要になるそうです。
※)大国主義ですな。
4)最も重要なのが「軍に対する姿勢」
ネルーは、独立後の国家を
「軍隊が国家を守るが、国家の政治を決めるのは文民政府である」
という構造にしようとしたとのこと。
ここで重要なのは、彼が軍そのものを弱体化させようとしたのではなく、むしろ英国領インド軍を継承した強力なインド軍を維持したそうです。しかし、
「軍事力 → 政治権力」
という変換を認めない方針※が非常に重要だったそうです。
※)国防政策や軍事予算を政府が決定し軍の指導部はその政策を実施する立場に置かれた、軍司令部の提案は国防省(文民)を通じて処理される仕組みが整えられた、軍人が政党活動や選挙運動に参加することを禁止する規則を設けた、などが具体的施策だったそうです。
ネルーは1947年8月15日の独立から1964年5月27日の死去まで首相だったそうです。
5)ネルーを理解する鍵は「国家をどう作るか」
ネルーは独立したインドを、
「選挙 → 議会 → 政党 → 文民政府 → 官僚機構 → 軍」
という政治的序列の中に置こうとしたそうです。つまり、
「軍や官僚が国家を作るのではなく、政治によって決められた国家目標を軍・官僚が実行する」
という考え方。
ネルーのインドでは、かなり強力な政治指導者が、
「軍・官僚は国家の所有者ではなく、文民政府の下にある」
という関係を最初から作ろうとしたということのようです。
6)ネルーを「民主主義者」とだけ捉えると不十分
ネルーは議会制民主主義を強く支持するだけでなく、非常に強力な国家による経済計画も支持したそうです。
1950年には計画委員会(Planning Commission)が設置され、国家主導の経済開発を進めまたとのこと。
彼の理想は、
・ 政治=議会制民主主義
・ 経済=国家による計画・開発
・ 社会=宗教的に中立な国家
・ 軍=文民政府の統制下
という組み合わせであり、現代の意味で単純に「自由放任主義的な民主主義者」と考えるのは適切ではないそうです。
7)ネルーの人物像
ネルーの最も重要な特徴は、
「英国から独立した後、植民地国家の組織をそのまま政治権力にしてしまわず、議会政治の下に置こうとした国家建設者」
という点だそうです。
ネルーは「英国教育を受けたエリートながら、英国の制度を単純に否定した」のではなく、議会、選挙、司法、官僚制、軍などの近代国家の制度を引き継ぎながら、それらを「インドの民主政治」に従属させようとした人物といえるようです。
「なぜネルーには、それができたのか?」
という命題はネルー個人の人格だけでは説明できないとするようです。むしろ、
①ネルーという強力な政治指導者
②インド国民会議という巨大な全国政党
③ガンディー以来の大衆政治の経験
④独立前から存在した選挙・議会政治の経験
⑤軍を政治から遠ざけるという政治的慣行
が組み合わさっていたことが重要なのだそうです。
《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《
戦前の日本では、1900年に第二次山県有朋内閣が軍部大臣現役武官制を制定し、軍が直接政権を握らなくても大臣の任命を通じて内閣の成立・存続に強い影響を及ぼせる仕組みを作ってしまった※そうです。
※)山県有朋(1838~1922年)は松下村塾卒の軍人。選挙を経ずに明治天皇の任命により首相になった人物のようです。
軍部大臣現役武官制の制定は、まさに、「軍事力 → 政治権力」のルート構築となったようです。
インドの国家設計を担当したネルーたちが日本の1930年代の軍部台頭を教訓としていたという証拠は無いようですが、耳目に届いていたかもしれません※。
※)東京裁判(1946~48年)に判事として参加したラダビノード・パール(Radhabinod Pal、1886~1967年)氏は、カルカッタ大学副学長当時の1946年に、英国の収監から釈放されたネルーを大学の卒業式演説に招いているそうです。なお、パール氏も数学を学んだ後に法律の研究に進んだそうです(カルカッタ大学法学修士)。
ネルーは、もちろん、より身近な反例をイギリスの植民地支配に見ていたようですが、、。
ネルーは英国人官僚と英領インド軍によってインドの植民地支配が行われてきたとする直接的な批判をしているそうです。
実際、ネルーは1931年の論考ですでに文民統制を課題として挙げているそうです。日本の5.15事件の前年です。
筆者の視点からは「ケンブリッジ大学で自然科学を」「インナー・テンプルで法律を」、それぞれ学んだというネルーが受けた教育の(好)影響が気になっています。
次に続きます。




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