
朝永博士のメモ。お子さんからの手紙?に散乱行列。こちらから転載させて頂きました。
朝永振一郎博士が島田での単身赴任生活を開始した時点で、「テーブル上」の課題である航空機用レーダー信号源の理論モデル化が既に終了していたのではないかと指摘しました。その根拠を以下に記します。
(1)東京文理科大学の同僚だった宮島龍興博士(後の筑波大学学長、理化学研究所理事長)によれば、朝永博士はすでに1942年においてマグネトロン動作の本質を見抜く考察を得ていたとのことです。
(2)1945年4月、東京大学の学生が島田研究所に着任しました。後のミュンヘン工科大学教授で東京大学教授も務められた森永晴彦博士です。森永教授は手記に「島田研究所に到着した時、朝永先生はアオズリに目を通しておられた」と綴っています。アオズリ(青刷り)とは出版物の試し刷り版のことで、誤植や誤字脱字がないかを著者が確認するためのものです(現在は異なる方法が採られますが、かつては標準的方法でした)。つまり、朝永博士のレーダー信号源研究は報告書が取りまとめられ出版準備に取り掛かっていた状況だったと推察されます。実際、こちらでは「極超短波磁電管の研究」の原稿として2冊のノートが1944年にまとめられているとしています。
(3)朝永博士の御弟子さんの一人でノーベル賞受賞者の南部陽一郎博士は、この時期、陸軍の技術士官として大阪の陸軍研究所に所属しておられました。そこでの記憶を南部博士は述懐(英語)されています。「小谷先生が陸軍研究所に来所され、海軍の研究成果を紹介するセミナー講演をされた。海軍の進んだ研究はとても印象的だった。(筆者の意訳です)」戦時中の海軍と陸軍との非協力度合いは種々指摘されているところですが、南部博士の述懐は陸軍が頭を下げて朝永小谷理論を学ぼうとしていたことの証左と考えられます。これは、1945年4月の時点で朝永博士の理論の完成度はとても高かったということを暗示します。
(4)南部博士の回顧録では、朝永博士が散乱行列の手法を1943年後半には導波管に適用していたと記しておられます。
(5)日本各地の防空レーダーに実機が採用されたということは、機器製作に必要な時間を考慮すると、やはり、1945年4月以前の理論完成が暗示されます。
ということで、ここでは航空機用レーダー信号源の理論モデルを構築する研究は1945年4月の時点で終了していたという立場を取ります。
「朝永ノーベルロード」の地図をこちらにアップしました。
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
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