朝永振一郎博士と島田市 015 参考文献の入手時期

坂田昌一博士。こちらから転載させて頂きました。

赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。

ここでの結論は「坂田昌一博士の論文の内容を朝永博士は島田単身赴任の前に知っていた」となります。まずは、朝永博士のノーベル賞受賞講演にある思考の流れを復習します。

「関連する思考をドイツ留学中に開始し、A論文、B論文、C論文、D論文を選択して参考にしつつそのとりまとめとなるアイディア『C論文+D論文』を得た。若手の協力を得て計算を進めたところ、C論文の足りないところを発見し、それを補完することによって繰り込み理論の完成に至った。」

以下では、参考文献のそれぞれについて、朝永博士が内容を把握した時期を推定してみます。

A論文はドイツ留学中にハイゼンベルク博士から直接ゲラ刷りを得ています。B論文もドイツ留学中に入手したと思われます。著者のパウリ博士はハイゼンベルク博士と同じボルン博士門下であり、情報交換は頻繁だったと思われます。

C論文は米国専門誌上の掲載でした。1939年5月のことで時期的に際どいのですが、同年9月のドイツのポーランド侵攻よりも前でした。これもドイツ留学中の朝永博士にとっては入手可能な論文だったと考えられます。

そして、坂田昌一博士のD論文です。1946年秋に日本の英文専門誌Progress of Theoretical Physicsに掲載されました。ですが、その第一頁のフッター(脚注)に以下のような興味深い説明文があります。

The content of this paper was read before the symposium of the meson theory held on September, 1943. The printing was, however, delayed owing to the war circumstances. (この論文の内容は1943年9月開催の中間子研究会の前に読まれている。印刷(=論文掲載)は、しかしながら、戦時中のために遅れた。)

湯川博士が残されたメモによると、1943年9月26日(日)に理化学研究所講堂開催の中間子討論会があり、その午後に坂田昌一博士が登壇されています。その論題は「素粒子論における模型の問題」でした。
さらに、この湯川メモが紹介された物理学会誌の湯川博士追悼文(河辺六男・小沼通二共著)には「1943年9月の会だけは、講演者があらかじめくわしい原稿を作り、それを事前にプリントして全国の研究者に配るという形で準備が進められ」とあります。

そして、翌日の9月27日(月)の午後、今度は朝永博士が登壇されています。朝永博士は間違いなくこの段階で坂田昌一博士のD論文の内容を把握されていたと考えられます。

以上により明らかになることは、朝永博士は島田単身赴任期間の「前」に「C論文とD論文の双方の内容を把握していた」ということです。つまり、先に述べた「繰り込み理論の発案のタイミング」の可能性のある期間のスタートが1946年秋ではなく、その3年前の1943年秋ということになります。

ノーベル賞研究の発案と島田市との地縁の可能性が0%から9%になってきました。

このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。

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