
強制的徴兵に氾濫するヴァンデ県の農民。市民・反乱軍あわせて約170,000人が死亡したそうです。こちらから転載させて頂きました。
「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。
前回は、当初は静観していたイギリスが1793年2月1日のフランスの宣戦布告を受けて参戦した旨を記しました。その際の英首相の主要な判断材料が「フランスの北海沿岸や英仏海峡への軍事的拡張を警戒」だったことも。
今回は、フランスが始めた特殊な徴兵制を見てゆきます。
徴兵制自体はこれが世界初という訳ではなかったようです。歴史上、国家が兵役を義務として国民に課す制度は広く存在したそうで、古代ギリシャ・ローマ、中国(秦・漢など)、中世ヨーロッパなどでは兵役義務が課されたようです。
また、近世ヨーロッパにも常備軍を維持するための制度がスウェーデン(17世紀)やプロイセン(18世紀)にあったようです。
フランス革命戦争における徴兵制はこれらとは異質だったようです。「国民国家が国民全体を軍事資源として動員する」「身分・階級を問わず国民全体に兵役義務」「全社会を『国家総力戦』の体制に」という考え方はそれまでありませんでした。
「余計なことをしたものだ」と感じたのは秘密にしておきます。
以下はその背景と経緯です。
》背景《
1792年4月に宣戦布告してしまったものの、フランスは窮地に陥ったようです。旧貴族将校の多くが亡命・逃亡し、軍の指導体制が崩壊。 兵士の士気も低く、前線での敗北が続出。国内では王政派や保守派による反革命蜂起(ヴァンデー反乱など)が拡大。
外も内も敵だらけの状態になってしまったとのこと。
》義勇兵(志願制)《
1792年7月に立法議会が「祖国は危機にあり」を宣言したところ、革命の理念に共感する市民が多数志願して軍に参加したそうです。約20万人の義勇兵が集まり、ヴァルミーの戦い(1792年9月、パリの東約100km、対プロセイン)で勝利を得たそうです。ただ、 この時点ではまだ「徴兵」ではなく、革命精神に基づく志願制の人民軍だったそうです。この勝利の翌日に王政を廃止し、共和制に移行します。
》国民皆兵の発令《
1793年1月に国王ルイ16世が処刑されます。対して、ヨーロッパ諸国は結束して第一次対仏大同盟を形成し始めます。フランス政府は各国に宣戦布告をしつつ、同時に国家総動員を決断したそうです※。
※)どこかの国でも戦争に突入した後に国家総動員法が成立し、戦線を拡大してゆきましたな、、、。
1793年2月に第一次徴兵として30万人徴集令が発布されたそうです。各地方に人口比で割当し、くじ引き徴集が命じられたとのこと。強制的徴兵制の出現です。対して、農民反乱も起きました。春の種まきの時期が迫っているのに、、重い負担が課せられたようです。
1793年8月には「国民皆兵」宣言が出されます。「若者は戦場へ、既婚者は武器を造り、女は衣服を作り、老人は戦士を励まし、少年は包帯を運べ」という軍務だけでなく国民全体が戦争に奉仕する義務を持つという発想だそうです。近代的徴兵制と国家総力戦の原点となったそうです。
》制度化《
1793年の「国民皆兵」は非常措置だったようですが、戦争が長期化する中で恒常的な徴兵制度が必要となったそうです。1798年にジュールダン=デルブリュ法が成立し、「20〜25歳の男子に兵役義務を課す(原則は全員対象)」という制度が確立されたそうです。
》結果《
前回示したように、当時のフランスはヨーロッパ第一の人口を抱えていましたので、この人海戦術は他国を席巻したようです。特に、次のナポレオン戦争ではこの膨大な国民軍がヨーロッパを席巻したとのこと。以後、19世紀の多くの国家がフランス型の徴兵制を採用したそうです※。
ということは、それ以前は「国民のすべてが戦うことは無かった」ということになります。
※)イギリスは20世紀まで徴兵制を採用しなかったそうですが、、。
国民が「国民皆兵」を(半ば強制的に)受け入れた背景には「革命防衛・国家危機・人民主権の理念」があったと言いますが、それらが本当に国民の利益になったか筆者にはわからないところです。ナポレオン時代には王政復古となったりしますので、、。
このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。「フランス革命戦争」ミニシリーズの初回はこちらです。
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