19cw057: 19世紀の戦争_057_クリミア戦争_1853年~56年_2_背景と発端

(抜粋)19世紀中ごろのクリミア戦争について深掘りするために当時の背景と発端を調べてみました。

1812年ころのモルダヴィアとワラキア。オスマン帝国、ロシア帝国、オーストリア帝国に囲まれた地域だが、黒海には面していない。ロシアがこの両国に侵攻したのがクリミア戦争の発端とされる。場所はクリミアではなかったし、この侵攻はそれまで幾度も繰り返されていたものだった。こちらから転載させて頂きました。
ワラキアの革命家たちが掲げた1848年のルーマニア国旗の初期の形態。旗に記された文言は「正義、友愛」と訳すことができるそうです。オスマン帝国とロシアの圧力が入り乱れていたワラキアとモルダヴィアでルーマニア独立の機運が高まっていた状態でクリミア戦争が始まったようです。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

 前回は19世紀の中ごろに生じたクリミア戦争の概要を俯瞰しました。

 「オスマン帝国・イギリス・フランス」対「ロシア」という構図でした。

 筆者高校時代の世界史で習ったものとほぼ同じでしたが、背景や発端については掘り下げが必要と考えました。

 特に「ロシアの南下政策が原因」というけれど、、、と感じ、その本質を理解したいと思いました。

 また、その30年前のギリシャ独立戦争では「オスマン帝国・エジプト」対「イギリス・フランス・ロシア」という構図だったのに、、と不思議に感じました。

 例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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1)「ヨーロッパの病人:オスマン帝国」
 16世紀に最盛期を迎え、バルカン半島やハンガリーまで版図を広げ、18世紀には欧州に「トルコ趣味」を流行させ、モーツアルトに「トルコ行進曲」を作曲させたオスマン帝国でしたが、19世紀半ばには「ヨーロッパの病人」と呼ばれていたそうです。

 衰退した主な原因は、次の4点にまとめられるそうです。
(1)軍事力の後退
・17世紀末以降、ヨーロッパ諸国の軍事技術や組織改革に後れを取ったそうです。
・露土戦争 (1828年~29年)での敗戦。
(2)行政・財政の腐敗
・官僚や地方総督の汚職が広がり、徴税制度が機能不全に。
・度重なる戦争で財政が悪化。
※)戦争による領土獲得が飽和して出費だけが増え、財政悪化を招き、官僚や地方の制御ができなくなったという経緯のようです。
(3)民族主義の高まり
・ギリシャ、セルビア、ブルガリアなどバルカン半島の諸民族が独立を求めて反乱を起こした。
・多民族国家であったため、帝国の統一が揺らいだ。
(4)ヨーロッパ列強の介入
・イギリス、フランス、ロシア、オーストリアなどがオスマン帝国の弱体化につけ込み、領土や利権を争奪。
・このため「ヨーロッパの病人(The Sick Man of Europe)」と呼ばれるように。

 まとめると「軍事・財政・政治の衰えという内的要因に、民族独立運動と列強の干渉という外的要因が重なったこと」が、オスマン帝国衰退の主因とされるそうです。

 なお、「衰退」といってもすぐに滅亡したわけではなく、改革(タンジマート改革など)による立て直しを試みながら約70年間存続し、最終的には第一次世界大戦後の1922年に帝国は終焉を迎えたそうです。

2)クリミア戦争の発端
 1853年のロシア軍はクリミア半島に侵攻したのではないそうです。

 1853年6月、ロシア軍はオスマン帝国の属国(保護国)の
モルダヴィア(Moldavia)
ワラキア(Wallachia)
に進駐したそうです。現在の国名でいえば、
ルーマニア東部・南部
・一部は現在のモルドバ共和国
に相当。これらは当時、オスマン帝国に貢納する自治公国。

 ロシア軍は「正教徒の保護」を名目に占領※。
※)「○○の保護」はロシアが侵攻する際によく使うフレイズですね。モルダヴィア・ワラキア両国ともに正教徒が大部分で自治をオスマン帝国に認められていたようですが、スルタンへの貢納、外交権の制限、君主の承認にオスマン帝国の影響が及ぶなどの制約※※があったそうです。なお、クリミア戦争以前に何度も生じた露土戦争では両公国をロシアが占領することはたびたびあったようです。ですが、露土戦争が終結するとオスマン帝国の宗主国体制に戻ることが繰り返されています。また、両公国の抗議活動家※※※の中にはロシアに支援を求める人々もいたようです。
※※)この辺りは極東の「清国と朝鮮王朝」の関係に似ています。朝鮮王朝のドラマなどでは「清国との関係は抑圧的で屈辱的」と表現されることが多いようですので、「広範な自治」と表現されるオスマン帝国との関係も深掘りをする必要がありそうです。
※※※)クリミア戦争直前にはルーマニア独立を目指す運動が始まっていたようです。

 これに対しオスマン帝国が1853年10月に宣戦布告し、戦争が始まったそうです。

 その後(1854年3月)、イギリス・フランスが参戦すると、戦場は黒海を挟んだクリミア半島へ移り※、ロシア海軍の根拠地セヴァストポリを攻撃することに。
※)当時のイギリス・アメリカのパタンですね。発端の場所とは異なる地点が主戦場になるというのは第一次アヘン戦争や米墨戦争と同じです。オスマン帝国が「倍返し」をしたのであればまだ理解できるのですが、、。

 つまり、
(1)モルダヴィア・ワラキアへの侵攻(1853年)
(2)クリミア半島での主戦闘(1854~1855年)
という流れだったようです。

3)当時のオスマン帝国の首都
 当時の首都はコンスタンティノープルで、1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼして以来、一貫して帝国の首都(現在はイスタンブールという名称)。
・ヨーロッパ側に皇帝(スルタン)の宮殿(トプカプ宮殿)
・ボスポラス海峡を挟んでアジア側へも広がる
という世界でも珍しい二大陸にまたがる都市※。
※)ロシアはボスポラス海峡を制圧するためにオスマン帝国の首都コンスタンティノープルに攻め込んだ訳ではないということのようです。

4)なぜイギリス・フランスは慌てたのか
 ロシアがモルダヴィア・ワラキアを支配すると、次は南下して
・ドナウ川河口
・バルカン半島
・そしてコンスタンティノープル
・さらにボスポラス海峡
へ到達する「可能性が高まる」と考えたようです。

 もしロシアがボスポラス海峡を押さえれば※、黒海は事実上ロシアの内海となり、(ロシアの)地中海への出口をロシア自身が握ることになると考えたようです。
※)ロシアは最初からボスポラス海峡を軍事的に制圧する意図はなかったようですが、、、。

 イギリスにとっては、地中海からスエズ方面を経てインドへ向かう航路の安全保障に関わる重大問題だったそうです。

 フランスもヨーロッパの勢力均衡が崩れることを警戒したとのこと。

 そのため両国は、オスマン帝国を支援※してロシアの南下を阻止したそうです。
※)フランスとイギリスは1854年3月末に相次いでロシアに宣戦布告したそうです。

 クリミア戦争は「クリミアをめぐる戦争」というより、「ロシアの地中海進出を阻止するための戦争」であったと言えるそうです。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 もう少し中立的表現をすると「地中海やバルカン半島への進出を意図するロシアとそれら地域の利権を護りたいイギリス・フランスとの戦争が黒海の奥深くで行われた」という切り取り方ができるのではないかと考えます。

 ただ、ロシアの意図をイギリス・フランス側視点からのみ切り取るのは公平とは言えないのではないとも考えます。

 そもそも、モルダヴィア・ワラキアへのロシアの侵攻はクリミア戦争以前にもたびたび繰り返されていたので、「1853年に突然」という訳でもなかったようです※。
※)どうやら、フランス皇帝のナポレオン3世と対ロ強硬派のイギリス外相(後に首相)パーマストンがこの時期に重なったことがクリミア戦争勃発の要因のようです。また、後に深掘りしますが、ロシアの黒海艦隊の存在も要因の一つだったと考えられます。

 そこで、まずは侵攻以前のロシアの意図を深掘りしてみたいと考えました。

 次に続きます。

 このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
 このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。
 ミニシリーズは以下ようにまとめてあります。
・「フランス革命戦争
・「ナポレオン戦争
・「ウィーン会議後の戦争(テキサス独立戦争ほか)
・「第一次アフガン戦争」 
・「第一次アヘン戦争」 
・「アメリカの戦争(米墨戦争ほか)」 
・「クリミア戦争」  

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