19cw058: 19世紀の戦争_058_クリミア戦争_1853年~56年_3_ロシアの意図

(抜粋)クリミア戦争の理解を深めるために戦争勃発前のロシアの意図を俯瞰してみました。

ダーダネルス海峡(黄色)およびボスポラス海峡(赤色)の位置。こちらから転載させて頂きました。
ボスポラス海峡と、ヨーロッパ側およびアジア側の城塞。トーマス・アロムによる19世紀の版画。城塞はそれぞれルメリ・ヒサルとアナドル・ヒサル。こちらから転載させて頂きました。
ロシア皇帝ニコラス1世の1855年肖像画。クリミア戦争中の1855年3月2日、サンクトペテルブルクの冬の宮殿で58歳で崩御。自由主義的発想があった祖母エカチェリーナ2世とは異なり、父パーヴェル1世の影響を受けて厳格な性格を引き継いだそうです。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

 前々回からクリミア戦争を俯瞰しています。

 クリミア戦争の背景と発端を調べてみると、高校世界史で習った概要とは異なる側面が浮き彫りになりました。

 1853年勃発のオスマン帝国とロシアの戦いと1854年3月末のフランス・イギリス参戦の以降の戦争とは別物ではないかという疑念です。

 というのは、モルダヴィアとワラキアの二公国についてオスマン帝国とロシアは、それまで、数度にわたる露土戦争で揉めていたからです。この二公国はクリミア半島とは別の場所にあります。

 1853年のロシアの二公国侵攻は、ロシア視点からはその一環と見ることもできるのではないかと考えます。

 そこにフランス・イギリスが1854年に首を突っ込み、戦場がクリミア半島になった、、、という解釈も可能ではないかと感じました。

 そこで、クリミア戦争を前にしたロシアの意図を調べてみることにしました。 

 例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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0)はじめに
 ロシアの意図がクリミア戦争の外交を理解する上で非常に重要。

 ロシアはモルダヴィア・ワラキアを占領しただけで、直ちにダーダネルス海峡やボスポラス海峡の航行権を得られるとは考えていなかったそうです※。
※)そりゃそうですよね。なぜならば、両公国の占領と撤退はクリミア戦争以前に何度も行われてきたのですから。

 ロシアの考えは、もっと段階的なものだったそうです。

1)第1段階:モルダヴィア・ワラキアを占領する
 1853年にロシアが占領した両公国は、オスマン帝国の属国。

 ロシアとしては、
・オスマン帝国に圧力をかける
・「正教徒保護」の要求を認めさせる
・必要なら講和交渉の材料にする
という狙いがあったとのこと。

 つまり、占領そのものが外交的な圧力だったと考えられるそうです。

2)第2段階:オスマン帝国を屈服させる
 ロシア皇帝ニコライ1世は、オスマン帝国を「ヨーロッパの病人(Sick Man of Europe)」と呼び、いずれ崩壊すると考えていたようです。

 そのため、オスマン帝国を外交的に屈服させ、ロシアの要求を受け入れさせることを期待していたそうです。

3)第3段階:海峡問題の解決
 ロシアが本当に欲しかったのは海峡そのものではなく、黒海から地中海へ自由に出入りできる権利だったとのこと。

 当時、ボスポラス海峡・ダーダネルス海峡を支配していたのはオスマン帝国で、外国軍艦の通航を制限していたそうです。

 そのためロシアは
・通航権
・軍艦の航行
・場合によっては海峡の共同管理
などを将来的に実現したいと考えていたとのこと。

4)首都を占領するつもりだったのか
 ここが重要。1853年当初のロシアは

「コンスタンティノープルを占領しよう」

とは考えておらず、むしろ、外交交渉によって目的を達成できると期待していたそうです。

 ところが、イギリスとフランスは、

「ロシアは最終的にはコンスタンティノープルへ向かう。」

と強く警戒した※とのこと。
※)これにはロシアの黒海艦隊というもう一つの要素を考えておく必要がありそうです。

 つまり、ロシアの意図英仏が予測したロシアの将来行動には隔たりがあったとのこと。

 「ロシアは英仏の介入そのものを全く予想していなかったわけではない。しかし、両国が共同してロシアとの全面戦争に踏み切る可能性を過小評価していた」

と考えるのが適切なのだそうです。ニコライ1世の判断の誤算は

「イギリスとフランスは互いに利害が違うので、ロシアに対して統一して軍事行動することはないだろう」

という読みにあったそうです。

5)両海峡はオスマン帝国の首都の一部
 ボスポラス海峡はコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の中心に位置するので、

海峡を完全に支配することは、事実上、首都に対して決定的な影響力を持つこと

を意味するため、イギリスとフランスは、

「ロシアに海峡の支配権や自由な軍艦通航を認めれば、オスマン帝国はロシアの保護国同然になってしまう」

と考えたそうです。

6)まとめ
 ロシアが黒海の閉鎖性を打破し、地中海への出口を確保したいと強く望んでいたのに対して、その戦略的意図を英仏が重大な脅威と受け止めたことが、戦争の国際化につながったと考えるのが妥当なところのようです。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 「脅威に感じたので先制攻撃」は現在でもよく使われる戦争開始の理屈ですが、クリミア戦争においてすでにフランス・イギリスが用いていたようです。

 ロシアは黒海艦隊を地中海に展開したかったようですが、ボスポラス海峡は最も狭い箇所では698メートルしかなく、当時の大砲の射程が1㎞を超えていたことを考えると、安全な航行のためには海峡の支配は不可欠だったようです。

 また、当時の海軍力を比較すると、英仏はロシアに対して、戦列艦約2倍、フリゲート約2倍、蒸気艦10倍以上という圧倒性※を有していたようです。
※)戦列艦とは横一列になって敵艦隊と砲撃戦をする船舶、フリゲート艦は海を広く動き回って様々な任務を行う船舶、蒸気艦は「風に左右されない」船舶と役割があったようです。

 コンスタンティノープルの占領を考えず、海軍力も劣っていたロシアとしては海峡航行の安全を確保するための手段として何を考えていたのか?

 また、「地中海への出口を確保したい」の先にあった目的は何だったのでしょうか?

 ロシアの事前の外交交渉について調べてみたいと考えます。

 次に続きます。

 このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
 このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。
 ミニシリーズは以下ようにまとめてあります。
・「フランス革命戦争
・「ナポレオン戦争
・「ウィーン会議後の戦争(テキサス独立戦争ほか)
・「第一次アフガン戦争」 
・「第一次アヘン戦争」 
・「アメリカの戦争(米墨戦争ほか)」 
・「クリミア戦争」   

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