19cw059: 19世紀の戦争_059_クリミア戦争_1853年~56年_4_ロシアの事前外交

(抜粋)クリミア戦争を前にしたロシアの外交交渉、その内容を調べてみることにしました。 

エルサレム旧市街(東エルサレム)にある聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)。キリストの墓とされる場所に建つ教会堂で、ゴルゴタの丘はこの場所にあったとされるそうです。ギリシャ正教系の正教会では復活教会と称されているとのこと。こちらから転載させて頂きました。
セルビア中央部のクラリェヴォ(Kraljevo:ベオグラードの南約125㎞)の南西39 km に位置するストゥデニツァ修道院(セルビア語 : Манастир Студеница / Manastir Studenica)。セルビア正教会の修道院としては最大級のもの。最初の工事が完了したのは1196年春。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

 ここしばらくはクリミア戦争を俯瞰しています。

 筆者は1853年勃発のオスマン帝国とロシアの戦いと1854年3月末のフランス・イギリス参戦の以降の戦争とは別物ではないかと疑念を持ち、それに基づいて調査を進めています。

 1853年の「露土戦争の再現」という戦いに対して、1854年にフランス・イギリスが首を突っ込み、戦場がクリミア半島になった、、、という解釈が、前回の「ロシアの意図」の調査により筆者の確信となりつつあります。

 そこで、クリミア戦争を前にしたロシアの外交交渉の有無、それがあったのであればその内容を、調べてみることにしました。 

 例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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0)はじめに
 ロシアの事前外交交渉はあったようです。

  むしろ、クリミア戦争は外交交渉が決裂した結果として始まった戦争と言えるそうです。

 以下、時系列に整理してみます。

1)ロシアの要求(1853年)
 ロシア皇帝 ニコライ1世 は、オスマン帝国に対し、オスマン帝国内のギリシャ正教徒の保護権をロシアが持つことを正式に認めるよう要求。

 この交渉のために特使のアレクサンドル・メンシコフ をコンスタンティノープルに派遣。

 この要求は単なる宗教問題ではなかったようです。オスマン帝国内※には数百万人の正教徒がいて、ロシアがその「保護者」として正式な権利を得れば、オスマン帝国の内政に継続的に介入する法的根拠を持つことになると考えられたそうです。
※)戦争発端の地であるモルダヴィアとワラキアという二公国については、18~19世紀の露土戦争を通じてロシアの強い影響下にすでに入っていたそうです。特に重要なのが1829年のアドリアノープル条約(エディルネ条約)だったとのこと。それによりロシアは二公国について大きな影響力を獲得し、1830年代にはロシアの保護国的影響が非常に強くなっていたそうです。従って、上記「要求」は二公国以外のバルカン半島地域が対象となるようです。

 オスマン帝国はこれを主権への重大な侵害と考えたとのこと。

2)海峡通行権は直接の要求ではなかった
 重要。1853年の交渉でロシアは

「ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を自由に通航させろ」

という要求を前面には出していなかったようです。

 海峡問題はロシアの長期的な戦略目標ではありましたが、直接の外交要求は正教徒保護権※だったとのこと。
※)関連性の強い正教施設※※のイメージを上掲しました。
※※)日本にも正教施設は存在し、東京、函館、京都などが代表格のようです。中でも東京御茶ノ水の東京復活大聖堂(ニコライ堂)は日本正教会の総本山的存在だそうです。日本正教会の聖職者を養成する神学校である東京正教神学院も隣接しているとのこと。

3)イギリス・フランスは別の意図として見ていた
 イギリスとフランスは、「ロシアは宗教問題を口実にしているだけではないか」と疑ったそうです。

 もしロシアがオスマン帝国への影響力を強めれば、
・次は海峡問題、
・さらにコンスタンティノープルへの影響力、
へ進むだろうと考えたそうです。

 つまり、英仏はロシアの「次の一手」を警戒していたということのようです。

4)交渉決裂後の軍事行動
 オスマン帝国が要求を拒否すると、ロシアはモルダヴィア・ワラキアへ進駐。

 ロシア側は「これは戦争ではなく、交渉を有利にするための圧力だ」という認識だったと考えられているそうです。

 オスマン帝国はこれを侵略とみなし、1853年10月に宣戦布告したとのこと※。
※)ここまでは従来の露土戦争のパタンです。

5)歴史学の観点
 「ロシアは本当に海峡を武力で奪おうとしていたのか、それとも外交交渉で有利な地位を得ようとしていたのか」は歴史学でも重要な論点なのだそうです。

 多くの研究者は、
1853年時点では、ニコライ1世はまず外交的圧力によってオスマン帝国を譲歩させようとしていた
・その圧力の手段としてモルダヴィア・ワラキアを占領した
・しかし、その行動が英仏に「ロシアは海峡を狙っている」という強い警戒心を抱かせ、戦争が拡大した
という見方をとっているそうです。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 ロシアは外交交渉の手順を踏んでいたようです。

 強引に過ぎるところもあったようですが、、。

 オスマン帝国の衰退を見て、「正教徒の保護」を強める機会ととらえていたのかもしれません。

 それは、すなわち、バルカン半島への進出であったようですが、、。

 にしても、当時の英仏は「戦えば勝てる」という状態だったようで、「機を見て戦争を拡大し、利益を吸い取る」という戦略をデフォルトとしていたように思えます。

 次に続きます。

 このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
 このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。
 ミニシリーズは以下ようにまとめてあります。
・「フランス革命戦争
・「ナポレオン戦争
・「ウィーン会議後の戦争(テキサス独立戦争ほか)
・「第一次アフガン戦争」 
・「第一次アヘン戦争」 
・「アメリカの戦争(米墨戦争ほか)」 
・「クリミア戦争」 

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