
志太平野と大井川の分流。こちらから転載させて頂きました。
このシリーズでは大井川の徹底研究を進めています。
前回から大井川の本流の変遷を追いかけていて、奈良時代の前まで達しました。今回は奈良時代(710年~794年)から安土桃山時代(1568年~1600年)までを見てみます。
調査は例によってGROKさん(3)にお願いしましたが、どうやら地学も苦手なようです。
奈良時代から安土桃山時代までの約900年間にわたる本流の変遷については、具体的な文献や地質調査に基づく詳細な記録が限られているそうですが、地形や歴史的背景、考古学的知見から推測される大井川の流路変遷についてGROKさん(3)が説明してくれました。
3)奈良時代(710年~794年)
前回の調査結果では、この頃までは現在の栃山川の辺りを本流としていたと推定されています。
ですが、この時代の大井川は、扇状地を形成しつつ、比較的広範な氾濫原を持っていたと考えられるそうです。
奈良時代の文献(例: 『日本書紀』や『続日本紀』)には大井川に関する直接的な記述は少なく、流路の特定は困難なのだそうです。
4)平安時代(794年~1185年)
大井川は洪水による流路変更が続いたと考えられるそうです。この時期、駿河国の開発が進み、荘園や農地の開墾が始まったため、河川の氾濫や流路変更が地域社会に影響を与えた可能性があるそうです。
岸村の大日山瞰川寺が開山された頃です。
平安時代の気候は比較的温暖で、豪雨や台風による洪水が記録されているそうです(例: 『日本後紀』)。大井川も流路を頻繁に変えたと推測されるとのこと。
5)鎌倉時代(1185年~1333年)
鎌倉時代になると、武士による地域支配が進み、大井川の渡河や治水に関する記録がわずかに見られるようになるそうです。
大井川は交通の要衝として重要視され、流路の安定性が地域経済に影響を与えたとのこと。
この時期も洪水や土砂流出による流路変更が続いたと考えられるそうですが、治水技術の未熟さから大規模な河川改修はほとんど行われなかったようです。
6)室町時代(1336年~1573年)
今川氏が遠江國から大井川を渡って駿河國に進出した時代です。
大井川が駿河と遠江の境界として強く認識されるようになり、流路の位置が戦略的・経済的に重要視されたそうです。
この時期、流域での農地開発が進み、洪水被害の記録が増えたとのこと。
室町時代の気候変動(小氷河期の始まり!!)により、豪雨や洪水が頻発した可能性があり、大井川の流路変更が顕著だったと考えられるそうです。
7)戦国時代・安土桃山時代(1568年~1600年)
今川氏や、武田氏、徳川氏による駿河・遠江の支配が強化され、大井川が軍事・交通の要衝として注目されたそうです。
特に、徳川家康が駿府(静岡市)を拠点としたことで、大井川の渡河や治水に関する関心が高まったようです。
この時期、治水技術が徐々に進展し、堤防や堰の建設が試みられたそうで、武田信玄の影響を受けた大聖牛が用いられたとのことで、実際に現存しています。
次回は、江戸時代直前の天正の瀬替え(1590年頃)から始めます。
》》》》このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。ミニシリーズの初回は以下の通りです。
・「ダム」
・「本流の変遷」
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