
天正の瀬替えの説明図。こちらから転載させて頂きました。
このシリーズでは大井川の徹底研究を進めています。
前々回から大井川の本流の変遷を追いかけています。前回は奈良時代から安土桃山時代までを見ましたが、今回は天正の瀬替え(1590年頃)とそれ以降を見てみます。
まずは、こちらから以下説明文を引用させて頂きます。
天正18年(1590年)ごろ、豊臣秀吉家臣であった駿河14万石の領主中村一氏は、牛尾山の窪みを切り開いて、大井川の流れを変える(=瀬替え)ことに成功した。それまで大井川の流れは一度牛尾山へ突き当たり、はね返って横岡の方へ向かい、竹下・万生寺から金谷の医王寺山へ突き当たり、島田方面に向かい、東南に流れて駿河湾に注いでいた。この瀬替え工事で、現在のように流れるようになった。
また、当時金谷・五和地区を治めていた掛川城主(6万石)山内一豊は、横岡から牛尾山まで堤防を築いた(これが世に言う志戸呂堤)ので、今まで大井川の河床だった所が次第に開墾されて、新しく田畑ができ、人家も増加するようになった。
牛尾山は遠江國の山ではなく駿河國にあって、神座と相賀を隔てる山地の一部だった訳です。それを切削して流路とし、旧流路には堤防(一豊堤)を築いたという大工事でした。
1590年といえば、豊臣秀吉が小田原征伐で後北条氏を攻め立てた年です。これに勝利した秀吉は徳川家康に関東移封を命じました。と同時に中村一氏が駿府城主に、山内一豊が掛川城主になりました。
天正の瀬替えは、結構に慌ただしい中で行われたようです。
その主役と動機には諸説(1、2、3、4、など)あるようですが、歴史的背景から考察してみたいと思います。
a)中村一氏と山内一豊は着任直後の城主でした。
そのような慌ただしく不安定な時期に大治水工事を判断できるだろうか、という疑問が残ります。
実際、1590年3月の中山城(三島市)攻めに中村一氏と山内一豊は参加しています。小田原城攻めは7月上旬まで続き、家康への関東移封の命は8月12日です。一氏と一豊の着任はそれ以降です。
「戦略や戦術に長けていた戦国武将は民衆の要望を把握し行動するのも迅速」というのであれば、その通りですが、、、。
b)駿河國と遠江國との国境の大井川の本流が変化して領地に変化。
瀬替えで現在の金谷地区に遠江國側の領地が増えた訳ですが、同時に、下流の多くの土地が駿河國側となりました。
この当時、「藩の領地」という意識が一氏と一豊の間にあったかどうか疑問ですが、領地の石高は秀吉の家臣としての力関係に影響するはずです。
一氏と一豊の領地損得に係る人間関係は不明ですが、トップダウンの裁定であれば両者は従ったのではないかと考えられます。
以上から、権力の絶頂にいた秀吉の意向に従った可能性も大きそうです。とすれば、秀吉の目的はどこにあったのでしょうか?
徳川家康は1582年から駿河國を織田信長から与えられています。1586年暮れには本拠を駿府に移しますが、その前には水害や飢饉の対策に追われる日々もありました。その克服の努力に領民の信頼感が増した可能性もあります。
その家康を関東に追いやり、新参者の中村一氏と山内一豊が領主として入ってきた。地元対策として何かが必要だったのではないでしょうか?
ちなみに、向谷用水はこの直後に建設されたという説があります。本流の水が無くなってしまった地域への配慮だったように思われます。
さらにちなみに、瀬替え以前に牛尾山の南側にあった地域は大井川の本流に沈んだ訳ですが、どんな場所だったのでしょうか?現在の笹ヶ久保の地名と関連があるのでしょうか(現在は窪地とは思えない地域ですが、、)?
天正の瀬替え以降は大井川の本流は安定したようで、現在の流れと大きな変化はなかったようです(水量は激減しましたが、、)。
「平成の大改修」とかいうのが21世紀に入ってから行われたようですが、水量激減の大井川に対してどんな意味があったのは、理解に苦しむところです。
》》》》このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。ミニシリーズの初回は以下の通りです。
・「ダム」
・「本流の変遷」
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