19cw008: 19世紀の戦争_008 フランス革命戦争_6 エジプト遠征の欺瞞

ナイルの海戦で大惨敗のナポレオン軍。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

前回は、軍事的勝利と略奪金(軍資金)を求めてフランスがイタリア地方を侵略した旨を記しました。1796年の事です。

今回は、「革命防衛を根拠に開戦したはずなのに、革命と無関係なエジプトに遠征軍をフランスが派遣した」背景を俯瞰してゆきます。

イタリア侵略の前年までにスペインやプロセインと講和条約を結び対仏大同盟を弱体化させることに成功していました。ですから、オーストリアやイギリスとも和平を求めれば戦争が長引かずに済んだかもしれません。

ですが、フランスはイタリア地方へ侵略し、軍事的勝利と略奪金の双方を勝ち取ります。

北イタリアにはフランスの衛星国家が次々と打ち立てられ、1797年にオーストリアは講和に応じます。フランスの革命政府の財政も略奪金や占領地の収奪によって改善されたそうです。強奪された北イタリアの人々からすれば堪ったものではなかったでしょうに。

イタリア侵略の方面総司令だったナポレオンの立場はこの功績によって強化されます。

残る主要な敵国はイギリスということになりましたが、ナポレオンはイギリスの「インド貿易ルートを断つ」と主張してエジプト遠征を提案したようです。

ところが、当時のイギリスはインド貿易でエジプトに依存していませんでした。海路の喜望峰経路が主流だったそうです。

エジプト遠征を認めた革命政府には別の思惑があって騙されたふりをしたのでしょうか?頓珍漢とはこのことではないでしょうか?ともかく、翌1798年7月1日、ナポレオン軍はエジプトに上陸します。


しかし、フランスのエジプト遠征大惨敗で終わったようです。1801年にはフランスは降伏し、エジプトから撤退します。

ですが、その前の1799年、ナポレオンは自軍をエジプトに置き去りにしてフランスに戻り、敗戦を国民に知らせることもなく英雄扱いされ、さらには、軍事クーデターを起こして独裁者となります。

ナポレオンは武力で行政を崩壊させ、議会を無力化し、独裁憲法を制定して体制を確立させたようです。

「革命防衛」を謳ったはずの戦争が、途中からナポレオンに利用され、革命政府を打倒され、、、踏んだり蹴ったりとはこのことではないでしょうか、革命の理想を信じて自らの命を差し出した人々にとっては?

ナポレオン独裁は王政的絶対権力と共和制度のハイブリッドと言われ、ブルボン王朝の王政から見れば進歩があったとの見方もあるようではありますが、、、。


フランスのイタリア地方侵略やエジプト遠征から私たちが学ぶべきことは何でしょうか?

「開戦当初の戦争目的とは縁遠い目的意識を戦争は吸収して拡大してゆく」ことがあるということでしょうか?

ということは、「当初の目的は〇〇だった」として戦争全体を正当化することは無意味ということになるでしょうか?

また、当初の目的だけを信じて戦争に参画したり支援したりするのは愚かなことと言えるのではないでしょうか?

さらに、さらに、戦争の実態、勝敗を含めた実態が正確に周知されるにはかなりの時間が掛かるということも分かります。ナポレオンはこの時間差を利用して独裁制を始めました。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はちらです。「フランス革命戦争」ミニシリーズの初回はこちらです。  

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