19cw005: 19世紀の戦争_005 フランス革命戦争_3 イギリスの参戦

当時の英首相の小ピット(William Pitt the Younger)。こちらから転載させて頂きました。

革命防衛戦略としてルイ16世の処刑を強く求めたロベスピエール(ジャコバン派)。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

前回は戦争の端緒を開いた宣戦布告の背景を探りました。宣戦布告は革命政府(ジロンド派)、ルイ16世、海外逃亡貴族などの思惑で発せられ、戦争を始める人々の念頭に平民を慮る考えがほとんど無かったことが分かりました。

また、戦争の根元にフランス革命があり、そのさらに遠因にルイ16世が決めたアメリカ独立戦争支援があったことも分かりました。


今回はフランス革命戦争にイギリスが参戦した経緯を俯瞰してゆきます。

フランス(の形式上の行政トップのルイ16世)は1792年4月に宣戦布告をオーストリアに対して発しました。これに呼応してオーストリアとプロセインがフランスに宣戦布告しました。そして、革命政府は1793年1月にルイ16世を処刑します。

戦争が始まった1792年4月の当初、イギリスは中立を保っていたそうです。首相のビット※は国内経済安定と財政再建を優先していたとのこと。
※)1783年のアメリカ独立戦争終了後に24歳で英首相となり、フランス革命戦争勃発当時は在任9年目。父親、叔父、従兄も英首相だったそうですが、14歳でケンブリッジ大学入学という学力の持ち主だったようです。首相就任当時、政府収入の半分が国債の返済に充てられる状況だったとのこと。

ところが、ルイ16世の処刑で流れが変わったようです。罪名は「反逆罪」でした。「国家に対する陰謀と自由の侵害」の罪ということでしたが、1792年時点では王自身を裁くための明確な法律的根拠(刑法上の条文)は存在しなかったそうです。同年12月に国民公会が「王を裁く権限は国民にある」と宣言し、1793年1月に有罪決定したとのこと。遡及処罰ですな。

名誉革命から約100年経ち、立憲君主制で落ち着いていた英国にとっても刺激(革命輸出の可能性)が過大だったと思われます。

そのほかにも、以下のような思惑があったようです。

1)フランスの北海沿岸や英仏海峡への軍事的拡張を警戒
2)世界貿易・植民地経済の覇者の地位を守る(フランスの復興を抑圧する)
3)「財政力と海軍力による優位」を戦略としていたため欧州大陸内のパワー均衡が必要(フランスの強大化を阻止)
(当時のフランスは、政治的には混乱していたものの、経済力・人口・潜在的軍事力の面では依然としてヨーロッパ最大級の大国だったようです。参考として末尾に当時の各国の人口をリストしておきます。また、フランス革命戦争勃発の前に英首相ピットが関与した戦争もリストしておきます。さらにピットの対フランス観も添えておきます。)

イギリスとフランスの関係は断絶に近いものだったようですが、1793年2月1日に「フランス」がイギリスとオランダに対して宣戦布告し、イギリスはこれに応じた形となったようです。そして、徐々に対仏大同盟が成立してゆきました。


イギリスの参戦は、結果的に、戦争の拡大を招いたようです。イギリスもフランスも海外の交易路や植民地でせめぎ合う間柄だったからです。


フランス革命の価値はさておき、戦争にのみ着目すると以下のようにまとめられるように思われます。

フランスは王政をひく周辺諸国の中で、革命という急進的な政治的異質性が国内問題として勃発したが、その波及が国内に留まらない中で、戦争を利用したり問題解決手段としたりしたため、長期化および拡大が生じてしまった。相手国も当然のように戦争を問題解決の手段としてフランスに呼応した。

次回は徴兵制の始まりについて論考します。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。「フランス革命戦争」ミニシリーズの初回はこちらです。  


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》参考:当時の各国の人口《
フランス: 約2,700〜2,900万人(ヨーロッパ最大の人口大国)
ロシア: 約3,000万人以上(広大だが分散、経済・輸送面で制約あり)
オーストリア(ハプスブルク帝国): 約2,000万人弱(多民族構成)
プロイセン: 約900万人( 軍事国家だが小規模)
イギリス(グレートブリテン): 約1,000〜1,100万人(工業化が進展中)
スペインは経済・軍事ともに衰退し、ヨーロッパの主導的地位から脱落、イタリア(という国は無く)では都市国家乱立状態。
》参考2:ピット英首相就任から当時までのイギリスの戦争《
1)第四次英蘭戦争(1780–1784):小ピット就任時(1783年12月)には まだ継続中。イギリスとネーデルラント(オランダ共和国)の間の戦争で、アメリカ独立戦争に関連してオランダがアメリカと通商を行ったことが原因。1784年5月の講和(パリ条約)で終結。
2)第3次マイソール戦争(1789–1792):イギリス東インド会社 vs マイソール王国(ティプー・スルターン、インド南部)。小ピット政権の下で進められたインド政策の一環で、英本国政府は東インド会社を通じて実質的に戦争に関与。1792年のシュリンガパタム条約で終結。
3)(戦争には至らないが重要)ヌートカ危機(Nootka Crisis, 1789–1790):イギリスとスペインの間の北太平洋沿岸領有権をめぐる対立。戦争直前まで緊張が高まったが、外交交渉により回避。公式には「戦争」ではないが、当時の英国政府にとって非常に大きな国際危機。イギリスが“非公式に”関係した衝突。
4) 北西インディアン戦争(1785–1795):アメリカ合衆国 vs 東北部インディアン部族連合。イギリスはカナダ側から部族を 支援したが、正式に参戦していない。
参考3:ピット英首相の姿勢《
ピット英首相は「フランスとの戦争自体は「革命の政治的経過や、人間の解放をうたう諸局面に対しても関心を払うことなく、1792年にプロシア、オーストリアが革命政府に宣戦を布告したときもこれに参加することを拒んだ。」とう姿勢だったようです。1793年に「革命フランスがベルギーに侵入し、スヘルデ川の河口を占領してオランダに圧力を加え、イギリスの伝統的な貿易を脅かすようになったとき…戦争の遂行に専心した」とのことなので、上記の「1)フランスの北海沿岸や英仏海峡への軍事的拡張を警戒」が参戦の引き金となったようです。

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