19cw031:19世紀の戦争_031 第一次アフガン戦争(1838年~42年)_1

絵画「1842年、グンダムックにおける第44連隊の最後の抵抗」。イギリス東インド会社の軍隊(インド軍)がアフガニスタンのカブールから撤退する様子が描かれています。第44連隊はアフガニスタン部族民に包囲され壊滅的な敗北を喫した部隊だそうです。こちらから転載させて頂きました。

クックとホイートストンの5針6線式電信機(1837年)。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

本シリーズはフランス革命戦争とナポレオン戦争からキックオフしましたが、これまで俯瞰してきた大きな戦争はヨーロッパと北米に限定されていました。

ウィーン体制で当座の秩序が保たれていた欧州でしたが、その一方で、新大陸では独立(や侵略)の戦争が蠢きました。

今回からはしばらく第一次アフガン戦争(1838年~42年)※に着目してみたいと思います。
※)シャーロックホームズに登場するワトソン博士は、この戦争ではなく第二次アフガン戦争で負傷したという設定になっているようです。

ご存じのように、アフガニスタンは欧州から見ると新大陸よりもさらに遠い存在※です。
※)当時はスエズ運河も無く、アフリカ最南端の喜望峰を回る海路か、陸路を経て紅海やアラビア海に出るルート、あるいは完全な陸路という遠隔地でした。大編成の軍隊のためのロジスティクスは無かったと見てよいでしょう。


さて、ここで少し寄り道をします。

エレクトロニクスを学んだ筆者としては、エレクトロニクス新技術と戦争との関連性を見ておくべきと考えたりしています。

後に記しますが、(携帯式の)カメラが初めて戦場に持ち込まれたのがアメリカ南北戦争だったそうで、一般大衆は戦争の悲惨さに初めて気づいたようです。これは「(戦争)報道」へのエレクトロニクス(というか光学)応用の側面ですが、、。

ここでは電信※に着目します。
※)「電信(でんしん)とは、電気信号を使って遠く離れた場所へ文字や符号を送る通信技術です。電話と異なり、音声ではなくモールス符号などの短い信号(「トン・ツー」)を電線や無線で送ります。19世紀に発明され、現代のインターネットに繋がるデジタル通信の基礎となった歴史的な技術です。」とはGoogleの説明です。

電信は複数の発明家によって段階的に発展したそうです。以下はその概要です。

時期:1830年代~40年代
場所:主にアメリカ合衆国とイギリス
代表的な発明:
1837年(イギリス):ウィリアム・クックとチャールズ・ホイートストンが電信機を開発。
1837~44年(アメリカ):サミュエル・モールスが電信機と「モールス信号」を考案し、1844年にワシントンD.C.~ボルチモア間で初の実用電信を成功させた。

電信の発明時期と第一次アフガン戦争の勃発と重なるので、「もしや(アジアへの戦争拡大に影響したかも?)」と考えましたが、、。

一般には、クリミア戦争(1853年~56年)が初めて本格的に電信が戦争で使われた代表例とされているようです。早とちりだったでしょうか?


さて、第一次アフガン戦争の特色は以下の通りです。
明確な「宣戦布告」はなし。
実質的にはイギリス側(東インド会社・インド総督)が戦争を開始。
きっかけは外交・戦略上の判断(となっているようですが、、)

明確にはされていませんが、「The Man Who Would Be King(ジョン・ヒューストン監督、ショーン・コネリーとマイケル・ケインが主演)」という映画がこの戦争の周辺を描いているようですので、ご参考まで。


以下、例によってChatGPTに質問する形で調査を進めた第一次アフガン戦争の概要です。

1)背景
19世紀前半、ロシア帝国が中央アジアへ南下政策を進めていたとされ※、インドを植民地支配していたイギリスは、ロシアがアフガニスタンを通じてインドへ影響を及ぼすことを警戒したそうです。
⇒これはよく言われることです。が、筆者はより正確な分析が必要と考えています。筆者が中村哲医師のペシャワール会の資料などで学んだことは、「アフガニスタンは人種のるつぼであり、古代から草原の道を活用した多数の民族が南下して現在の国を形成しているようだ」ということです。従って、草原の道を自国の南部に抱えるロシアにとっては「国民と同じ民族の一部が生活する地域」がアフガニスタンということになるのではないかと理解しています。これを「軍事的南下政策」と表現するのは牽強付会のように感じたりしています。

当時のアフガニスタンでは、実力者のドースト・モハンマド・ハーンが政権を握っていたが、彼はロシアとイギリスの両国の間で外交的な駆け引きを行っていたそうです。イギリスはこれを危険視し、かつての国王シャー・シュジャーを復位させて親英政権を樹立させようとしたとのこと。
⇒明治維新の約30年前のイギリスの戦略であること頭に入れておきたいところです。

2)経過
①開戦(1838年)
イギリス軍※はインドからアフガニスタンへ侵攻し、首都カーブルを占領。シャー・シュジャーを国王として即位させ、ドースト・モハンマドは失脚。
※)正確にはイギリス東インド会社の軍隊(インド軍)で、インド人兵士(セポイ)が約7~8割。
②反乱と包囲
しかし、イギリス軍の駐留に対する現地の反発は強く、1841年にカーブルで大規模な反乱が発生。イギリス軍は孤立。
※)アフガニスタンはアレキサンダー大王軍も撃退した国ですから、、、(笑)。
③カーブル撤退(1842年)
イギリス軍は安全撤退を約束されたものの、撤退途中の山岳地帯でアフガン部族の襲撃を受け、約1万6千人の兵士・民間人※がほぼ全滅するという壊滅的敗北を喫した。
※)約1万6千人の大半はインド人(兵士+民間人)※※。
※※)第一次アフガン戦争に参加したインド人兵士(セポイ)は、自発的な「志願」というより、当時の軍制度の中で雇用されていた職業軍人だったそうです。

3)結果
イギリスは一時的に再侵攻し報復を行った後、最終的にアフガニスタンから撤退。
ドースト・モハンマドが再び政権を回復。
アフガニスタンは列強の緩衝国家としての位置づけが強まる。
⇒ここで言う列強とはイギリスとロシアのことでしょうか?
イギリスにとっては植民地政策史上最大級の屈辱的敗北の一つとなった。
⇒しかし、ロシアについては「当時のアフガニスタンの実力者ドースト・モハンマド・ハーンがロシアとイギリスの両国の間で外交的な駆け引きを行っていた」という文脈でしか登場しませんね。
⇒しかしながら、ロシアとイランは19世紀※に入って二度の戦争を行っているので、それを考慮する必要はありそうです。
※)とはいっても、ロシアとイランはコーカサス地方を巡って17世紀から争っているので、、、。
⇒現在の話題を独占しているイラン、その歴史も把握しておく必要がありそうです。こちらは改めて。


ペシャワール会に所属する筆者としてはどうしてもアフガン寄りの視点となるようです。ご容赦ください。

次回からは「第一次アフガン戦争」を深掘りした結果についてご案内する予定です。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争
・「ナポレオン戦争
・「テキサス独立戦争」  

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