
戦前の広島城。福島正則(1561年~1624年)は雨漏り修理を咎められて50万石から4.5万石に減封。武家諸法度発布直後の1619年。こちらから転載させて頂きました。
2026年元旦に「喧嘩両成敗」のことを考え始めました。が、予想以上に深い内容となったので、分割し、ミニシリーズとしました。
前回は江戸時代の「藩同士の喧嘩」がどのように扱われたのかを概観しました。
今回は、理解をより深くするために、江戸時代の紛争事例を俯瞰してゆきます。
今回もChatGPTに質問する形で調査を進めました。
江戸時代に実際に起きた(または起きかけた)事例を挙げ、「どこまでが許され、どこからが許されなかったのか」を具体的に見てゆきましょう。
1)許された範囲「境界争論」
》藩と藩の領地の境目をめぐる争いで、山・川・入会地(共有の山林など)が対象となることが多かったようです。
》武力行使は禁止で、争いは書状、絵図(地図)、古文書 で主張し合う形態だったようです。これは「喧嘩」ではなく、行政・訴訟問題として扱われたそうです。
》具体例は次の通り。「伊達藩vs南部藩(陸奥国)」:両藩の境界をめぐり長期の争論があり、幕府(評定所)が裁定した。武力衝突は厳禁とされ、双方とも自制した。少しでも武装衝突すれば、両藩処罰の危険があったそうです。
2)曖昧案件「現地役人・百姓レベルの衝突」
》境界地で村人同士が揉める、藩役人が小競り合いを起こす、石を投げ合う、押し合う程度。
⇒東南アジアで最近の事例がありましたね。最初の場面ですが、、。
》幕府・藩の対応としては、藩主の責任が問われたようです。直接関与していなくても家臣の処分、藩への譴責(けんせき)(注意・始末書的措置)が行われた。小規模でも、衝突が拡大すれば即処罰。
3)完全なる処罰対象「藩兵の動員・武装行動」
》鉄砲・槍を持った藩兵の出動、砦・柵の設置、軍勢としての示威行動などが生じた時点で、「喧嘩」ではなく無断軍事行動=戦争準備と判断されたそうです。
》具体例は次の通り。「薩摩藩vs肥後藩(境界緊張)」:(曖昧だった)国境付近で緊張が(江戸期の当初から最後まで散発的に)生じた事例だそうで、幕府が即介入し、両藩に厳重な自制命令が発せられたそうです。
》 実際に衝突すれば、減封・改易級になる可能性が高かったようです。
4)ここまで厳しい理由
》江戸幕府の基本原則は「武力を使えるのは将軍だけ」であり、藩は軍事力を持つが使う権利はなかったそうです。従って、正当防衛であっても被害者側であっても、藩として武力を動かした時点で処罰対象となったとのこと。
》原因不問の「スーパー両成敗」だったようです。
》「江戸時代の藩は『喧嘩する権利』すら持っていなかった」とまとめるのが妥当のようです。
次回は「藩が武力行使に踏み切らなかった(踏み切れなかった)」理由を見てゆきます。
》》》》このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。
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