
オランダ船に偽装して長崎港に侵入したイギリス軍艦フェートン号(1808年)。こちらから転載させて頂きました。
2026年元旦に「喧嘩両成敗」のことを考え始めました。が、予想以上に深い内容となったので、分割し、ミニシリーズとしました。
前回は江戸時代の藩同士の紛争の事例を俯瞰してみました。
今回は「諸藩が武力行使に踏み切らなかった(踏み切れなかった)」理由を見てゆきます。
今回もChatGPTに質問する形で調査を進めました。
結論から言えば、「なぜ大名は軍事力を持つのに使えなかったのか」の理由は「(幕府が)抑止のために持たせ、使用は禁じた」からなのだそうです。
まず、各藩が軍事力を保有していた(できた)理由を見てゆきます。
1)反乱・一揆への即応
》百姓一揆・打ちこわしなどは各藩が自力で鎮圧する必要があったそうです。幕府が全国すべてに即応するのは不可能だったためとのこと。
2)外敵・非常時への備え
》異国船来航への対応や国境警備に供えた武力という位置づけがあったようです※。非常時には幕府の命令で動員されるという前提があったとのこと。
※)イギリス軍艦がオランダ船を装って長崎港に侵入したフェートン号事件(1808年)では長崎奉行が佐賀藩と福岡藩に武力行使を認めたようです。
》 つまりは、「平時は使わないが、有事に備えて保持」する軍事力を各藩が有していたようでした。
次に、なぜ使えなかったのかという核心部分を考えてみます。「表向きの理由」となっていますが、しばしのご辛抱を乞う次第です。
1)武力の最終決定権は将軍だけ
》幕府は「天下の武力独占」を原則とし、「大名が勝手に使う=主権侵害」という形を整えた。
2)戦国時代への逆戻りを防ぐため
》小競り合いが連鎖すると全面戦争になるという普遍的原理が尊重されたようです。その際に、「使える武力」は最大の不安定要因となりうるため、その抑制が必要だったと考えられます。
3)幕府による制度的縛り
》城の数の制限(城割)、無断の修築・出兵禁止、参勤交代による財政・人質的統制、などで武力の無断使用を罰する仕組みが構築されたようです。「武力を持たせるが、(勝手に)使うと罰する仕組み」としたとのこと。
正直なところ、上記説明は「幕府の思惑」が主体であり、各藩の思惑の分析が不足しています。
深い理解を求めるならば、「幕府との衝突を覚悟しても武力を隣の藩に行使できなかった理由」を理解したいところです。特に、徳川幕府の本丸の江戸から距離のある藩の判断を知りたいと考えました。
》》》》このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。
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