LB16: 連載「無法者」16_ドイツ基本法の制定経緯

(抜粋)ヒトラー独裁体制を許した過ちを防止する工夫が多々埋め込まれたドイツ基本法。誰がどのように策定したのか、その制定経緯を調べてみました。

西欧同盟(WEU)議会のカルロ・シュミット議長(1963年11月オランダハーグにて)。ドイツ基本法の父とされる法学者。こちらから転載させて頂きました。

 昨今、法律を無視して我が道を押し進もうとする輩が日本でも様々な階層で増えている状況を嘆き、このシリーズを始めました。

 最終的には無法者の対処方法を歴史に学ぶことができれば自身に合格点を与えたいと考えています。

 ここ何回かは、ヒットラーという無法者を国のトップに仕立ててしまったドイツが、制度改革を成し、大統領公選制(権限を抑圧された大統領を間接選挙で選出する)を採用して今日に至っていることを俯瞰しています。

 特に基本法(ドイツ憲法)と連邦憲法裁判所に盛り込まれた「絶対に独裁を許さない」という思想にはその決意のほどを感じさせます。

 では、それらを誰がどのように構築したのでしょうか?

 草案を作成した人々の思想や学術の背景は如何様だったのでしょうか?

 また、国民の納得は如何様に得られたのでしょうか?

 他山の石とすべく、理解を深める必要を感じました。

 例によってChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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0)はじめに
 本件は戦後ドイツ史の中でも重要なテーマなのだそうです。

 ChatGPTの結論は次の通りとのこと。

 現在のドイツ基本法(Grundgesetz)は、1948~1949年に西ドイツの州代表によって構成された「議会評議会(Parlamentarischer Rat)」が起草し、西側連合国(アメリカ・イギリス・フランス)の承認を経て制定された。

 ということで、「占領軍が作った憲法」でも、「国民投票で制定された憲法」でもないそうです。

1)制定までの経緯
(ア)1945年5月 ドイツ降伏
 第二次世界大戦でドイツは降伏し、国家としての主権を喪失。

 その後、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国によって占領された。

(イ)東西対立の始まり
 1947~1948年頃になると米ソ対立(冷戦)が深まり、その結果、ソ連占領地域と西側占領地域を一つの国家としてまとめて再建することが困難化。

 そこで西側3か国は、西側占領地域だけでも民主的な国家を作る方針を決めたとのこと。

(ウ)ロンドン勧告・フランクフルト文書(1948年)
 1948年、西側3か国は西ドイツの各州首相に対し、「民主的な憲法を作ってください」と要請。

 ただし、「ドイツはまだ分断されているので、『憲法(Verfassung)』ではなく『基本法(Grundgesetz)』と呼ぶことが望ましい」という考え方も提示された。

 これは、「将来、東西ドイツが再統一されたら正式な憲法を制定する」という暫定的な位置づけが反映されたもの。

(エ)議会評議会の設置
 1948年9月に各州議会が代表を選び、議会評議会(Parlamentarischer Rat)が設置された。
・議員数は65名(投票権を持つ代表)
・各州から選出
・女性議員も4名参加

 この評議会が条文を起草※。
※)とはいえ、条文の単なる寄せ集めでは無かったはずで、理念を司る中核人物がいたはずと筆者は考え、ChatGPTに更問いをしました。以下はその回答。

(オ)草案を作った人々
 現在のドイツ基本法には、日本国憲法でいう金森徳次郎やアメリカ憲法でいうマディソンのような「一人の起草者」は存在しないとのこと。
 基本法は議会評議会が約8か月かけて作り上げたとされますが、その中でも特に中心的な人物はいたようです。

(a) コンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer)※
※)ケルン出身でパン屋の孫。カトリック教徒。
 議会評議会議長で基本法制定の政治的リーダー。
 起草そのものよりも、各党・各州・占領国との調整役を果たしたとのこと。
 「基本法制定の政治的指導者」と言えるそうです。

(b) カルロ・シュミット(Carlo Schmid)※
※)カール・シュミットとは別人。フランス領カタルーニャ生まれで、当時はチュービンゲン大学(1477年創立)の公法学教授。
 実は、憲法学的には最も重要な人物
 社会民主党(SPD)の法学者として
・基本法の理念
・議院内閣制
・建設的不信任制度
・戦う民主主義
などについて大きな影響を与えた。
 ドイツでは「基本法の父(Vater des Grundgesetzes)」の一人とも呼ばれているそうです。

(c) ヘルマン・フォン・マンゴルト※
※)キリスト教民主同盟(CDU)所属。
 基本法起草委員会の中心人物。
 特に条文構成・法技術を担当。
 現在でも『Mangoldt-Kommentar』という基本法の代表的注釈書の名にその功績が残っているとのこと。

(d) テオドール・ホイス※
※)ドイツ南部のシュトゥットガルト近郊の出身。戦後の初代(西)ドイツ大統領。
 自由民主党(FDP)の代表として参加し、自由主義的な基本権保障に貢献。

(カ)西側連合国の承認
 完成した基本法案は、アメリカ・イギリス・フランスの軍政当局※による審査を受け、若干の修正を経て承認された。
※)アメリカのルシウス・D・クレイ 陸軍大将(General;1947~49年在任)、イギリスのブライアン・H・ロバートソン 陸軍大将(General;1947~49年在任)、フランスのピエール・ケーニヒ 陸軍大将(Général d’Armée;1945~49年在任)の3名がトップ。

(キ)各州の承認
 その後、西ドイツ11州の議会で承認された。

 バイエルン州だけは反対※も、他州の賛成により発効したとのこと。
※)バイエルン州は民主主義や基本的人権に反対したのではなく、「もっと連邦制(地方分権)を強くすべきだ」と主張して反対したそうです。

(ク)公布
 1949年5月23日に基本法が公布※され、翌24日に施行されました。
※)日本国憲法が1946年11月3日公布で1947年5月3日施行ですから、3年遅れですね。十分に時間を取ったということでしょうか?

 その後、1949年9月には西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が正式に発足。

(ケ)国民投票を行わなかった理由
 当時は
・ドイツ全土で自由な国民投票を実施できない
・東ドイツはソ連占領下
・あくまで暫定的な国家を作る
という事情があったため、各州議会の承認という形式が採られたとのこと。

 ちなみに、ドイツ基本法の改正に当たっては国民投票を行わないそうです。

(コ)再統一後
 1990年に東西ドイツが統一された際に新しい憲法は制定されず、東ドイツが基本法第23条(当時)※に基づいて西ドイツへ加入するという方式が採られ、現在も1949年制定の基本法がそのまま効力を維持しているそうです。
※)西ドイツの基本法を他のドイツの地域にも拡大適用できることを定めていた条文。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 戦後のドイツの政党には憲法草案を構築できる人材がいて、官僚任せにするのではなく自ら理念を盛り込んだようです、アメリカ・フランス・イギリスからの圧力もあったと想像されますが、、。

 ちなみに、日本国憲法を起草したとされる金森徳次郎は大蔵官僚から法制局に異動した人物だったようです。

 次に続きます。

 このシリーズの第一番目のポストはこちらです。同じく前回ポストはこちら、次回ポストはこちらです。

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