nam06:連載「狭量について」6_狭量とバカの壁

(抜粋)寛容となる資質を持った人々が狭量になる要因があるに違いなく、それを明らかにすることは多少なりとも意義があるのではないかと考えた次第。その第一弾は「バカの壁」と「狭量」との関係の分析です。

養老孟司著「バカの壁」。こちらから転載させて頂きました。

 昨今、「狭量」と評するほかにないという人物、特に著名人が散見されます。

 そこで、改めて「狭量」を本連載で考えてみることにしました。

 ここ何回かは、狭量からの距離感や弊害を社会やそのトップの人物にあてはめ、歴史上の例を俯瞰してきました。

 一般に、狭量は良い結果を生まないようです。


 今回からは、「狭量になってしまう原因」の分析を試みることにしました。

 性善説に立脚し、「人間は生まれながらにして寛容になる素質を持つはず」と仮定してみます。

 それでも社会の実績は狭量人物をトップに押し上げたり、社会自体が狭量に陥ったりして、悲劇的な結果を招くことが多々あります。

 以上からは、寛容となる資質を持った人々が狭量になる要因があるに違いないと推察されます。

 そして、それを明らかにすることは多少なりとも意義があるのではないかと考えた次第。

 その第一弾は「バカの壁」と「狭量」との関係の解析です。

 例によってChatGPTに質問する形で調査しました。

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0)養老孟司氏の『バカの壁』(2003年)
 この書籍における「バカの壁」の意味は、

人間は、自分が理解できること・受け入れられることの範囲を無意識に決めてしまい、その外側にある情報や考えを受け付けなくなる

なのだそうです※。
※)一世不備した書籍でしたが、諸般の事情により筆者は未読です。ですので、解釈は全面的にChatGPTに依存しています。

1)ここでいう「バカ」とは
 養老氏のいう「バカ」は、頭が悪い人を指す言葉ではなく、頭の良い人でも

「自分はこういう人間だ」
「この問題についてはこうに決まっている」
「自分の経験から考えて、そんなことはあり得ない」

と強く思っていると、目の前にそれらを否定する別の情報が出てきても、それを理解しようとしなくなることがある状態をいうようです。

 その際、「ここから先は自分には入ってこない」という境界線を「壁」と提議しているとのことです。

2)事例
 例えば非常に身近な例として、Aさんが、

「あの政治家は絶対に悪い人間だ」

と思っているとすると、その政治家について

・悪い行動 → 「やっぱりそうだ」
・良い行動 → 「選挙対策だろう」
・中立的な行動 → 「裏があるに違いない」

という具合に、自分の最初の判断に合うように情報を解釈してしい、新しい情報を得ても、実質的には考えが変わらない、これが「壁」の一例とのことです。

3)問題は「情報不足」ではない
 養老氏の指摘は、

情報は大量に入っているのに、自分に都合のよいものしか受け取らない

という状態が対象のようです。

 ですから「バカの壁」は、「無知⇒情報がない」という状況の話ではなく、「固定した認識⇒情報が入ってきても受け付けない」という状況を表すのだそうです。

4)「狭量」との関係
 両者は少し似ているけれども、同じではないというのがChatGPTの指摘です。

狭量→ 他人の意見・価値観などを許容しにくい性質
バカの壁→ 自分の認識の枠を超える情報・考えを受け入れられなくなる認知上の「壁」

 したがって、「狭量な人はバカの壁を作りやすい」とは言えても、「バカの壁=狭量」※ではないそうです。
※)「バカの壁」は狭量の原因のひとつと位置付けられると筆者は考えます。

 養老氏の指摘は、この「壁」は特定の人だけが持っているのではなく、程度の差こそあれ、誰にでも生じると考えているところだそうです。

 つまり、

「自分だけは客観的に物事を見ている」と思った瞬間にも、自分自身の「バカの壁」ができているかもしれない。

という、かなり自己批判的な概念なのだそうです。

5)カエサルの言葉
 古代ローマのカエサルについてよく引用されるのは

「人は、自分が見たいと思うものを容易に信じる」
fere libenter homines id quod volunt credunt

という趣旨の言葉※。
※)Google翻訳によりラテン語を和訳すると「人は一般的に、自分が信じたいことを喜んで信じるものだ」となり、上記とはニュアンスがちょっと異なるようです。

 これは、主に人間が自分の願望や期待に沿った情報を信じてしまう傾向を指しているそうです。

 一方、養老孟司氏の「バカの壁」は、もう少し広い概念とのことです※。
※)広い狭いは「認識」や「信ずる」という言葉の定義次第かと。根本的概念は同じだと筆者は考えます。認識の境界線は両者とも同じで、その外側を論じているのか(バカの壁)、その内側を論じているのか(カエサルの言葉)の違いだけでしょう。

6)「バカの壁」があっても狭量とならない場合
 例えば、ある人が数学を全く理解できないとしても、

「私は数学が苦手だから分からない。詳しい人の意見を聞こう」

と言えるなら、狭量ではないとのこと

 逆に、

「自分には理解できない。だからそんなものは間違っている」

となった瞬間に、「壁」が「狭量」に転化する可能性が生ずると考えるそうです※。
※)確かに。

7)「トップ」の場合
 「狭量な人物が国のトップに立った場合」と結びつけると、かなり重要な問題に。

 一般人なら、「自分には理解できない」で終了。

 しかし国家指導者の場合、

自分の認識の壁⇒他者の意見を排除周囲に同意する人だけを置く悪い情報がトップに届かなくなる判断を誤る

という連鎖が起こり得るため、「バカの壁」そのものよりも、「自分に壁があることを認識せず、それを権力によって他人にも強制する」※ことが危険なのだとのこと。
※)国家のトップというレベルではありませんが、筆者はこれを頻繁に体験しました(笑)。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 養老氏の指摘が正しいとすれば、「人は誰でも『バカの壁』を持つ可能性がある」ということになります。

 この場合の「誰でも」は「頭の良い人でも」という意味です。

 上記議論では「バカの壁」が「狭量」の原因のひとつになり得ることが指摘されています。

 ということは、気を付けないと、「人は誰もが狭量になり得る(頭の良い人でも)」ということになります。

 気を付けるべきは「バカの壁を意識してそれを低める、消失させるという努力を絶やさない」ということでしょうか?

  に続きます。

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