(抜粋)前回は「狭量(=不寛容)」と「国力減退」の相関が強い例を外国に求めました。それぞれの事情があるにせよ、民族間の不寛容が国力減退を招いたことは確かのようです。が、しかし、これらを他山の石とするには「日本と国情が違う」「日本人と民族が違う」という反駁が容易に挟まれそうです。そこで、日本国内の例を歴史上に求めてみることにしました。
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昨今、「狭量」と評するほかにないという人物、特に著名人が散見されます。
そこで、改めて「狭量」を本連載で考えてみることにしました。
前回は「狭量(=不寛容)」と「国力減退」の相関が強い例を外国に求めました。
結果、ミャンマー、イラク、南アフリカ、スペインが例示されました。
それぞれの事情があるにせよ、民族間の不寛容が国力減退を招いたことは確かのようです。
が、しかし、これらを他山の石とするには「日本と国情が違う」「日本人と民族が違う」という反駁が容易に挟まれそうです。
そこで、日本国内の例を歴史上に求めてみることにしました。
例によってChatGPTに質問する形で調査しました。
出発点の質問は「戦国時代や江戸時代において狭量がゆえに衰退していった大名や藩はありますか」でした。
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0)はじめに
戦国時代や江戸時代において狭量がゆえに衰退していった大名や藩があるそうです。
ただし、現代の意味での「寛容・不寛容」と、当時の政治における「家臣団の統制」「反対派の排除」「異なる勢力との共存」を区別して考える必要があるそうです。
「狭量」をここでは 自分と異なる意見や勢力を受け入れず、家臣・領民・旧敵などを排除した結果、自らの支配基盤を弱めたことと捉える基準で見ると、戦国時代には有力な候補があるそうです。
一方、江戸時代の藩については、藩主の性格だけで衰退を説明するのは難しく、家中騒動や人材排除が藩の存続・統治能力にどう影響したかを検討するのが適切なのだそうです。
1)今川氏:家中の強制的な刷新が領国の崩壊を早めた可能性
1560~68年ごろに、今川義元の死後にその跡を継いだ今川氏真は、織田・徳川勢力の圧迫を受け、わずか8年余りで戦国大名としての地位を失ったそうです。
この事例で注目されるのは、単に氏真が「暗君」だったということではないそうです。
歴史学者の大石泰史氏の今川氏滅亡を扱った研究では、家中の強制的な刷新が混乱と弱体化を招いたこと、国衆の離反が相次いだことが注目されているそうです。
戦国大名にとって、国衆は単なる部下ではなく、地域社会に根を張り、兵力・土地・地域情報を掌握する有力者。
彼らを従わせるには、武力だけでなく、所領の保障や政治的な信頼も必要だったとのこと。
そのため、当主が家臣団を一方的に組み替えたり、既存の勢力との関係を壊したりすれば、離反が連鎖する危険があったそうです。
ただし、今川氏の滅亡を「氏真の狭量」だけに帰すことはできないそうで、桶狭間の敗戦、徳川家康の独立、武田氏との関係悪化などの複数の要因が重なった結果とのこと。
狭量との関連で重要なのは、個人の性格というより、既存の協力関係を壊したときに、それを代替する統治の仕組みを用意できたかどうか※という点だそうです。
※)確かに。
2)豊臣秀吉:秀次事件による後継体制の弱体化
1595年に秀吉は甥で関白だった豊臣秀次を切腹させ、秀次の妻子や近親者にも厳しい処分を加えたそうです。
これは、戦国期の権力者が自らの周囲にいる人物を、疑念や政治的対立を理由に排除した事例として検討できるそうです。
秀吉に実子の秀頼が生まれる前には後継者として位置づけられていた秀次。その処刑と一族への処分は、豊臣政権の継承体制を大きく変える出来事だったそうです。
秀吉没後の政権構造を分析した研究でも、秀次事件は豊臣政権の権力構造を理解するうえで重要な論点とされているそうです。
・ 後継者をめぐる制度の不安定化:後継者を誰にするかという問題が、安定した制度ではなく、秀吉個人の判断に大きく依存していた。
・ 周辺の人々への萎縮効果:政権内部で異論や政治的な立場の違いを表明することが危険になれば、情報や意見が上層部に届きにくくなる。
・ 政権の持続性への影響:秀吉個人の権威に依存する構造では、死後に有力者間の対立を抑えにくい。
もっとも、秀次事件が豊臣家滅亡の直接原因だったと断定することはできないようで、秀吉の死、徳川家康の政治的台頭、関ヶ原の戦いなども決定的要因だったそうです。
それでも、権力者が自分の不安を解消するために周囲の人々を排除することと、政権が長期にわたり安定することは、必ずしも両立しないという点で示唆的な事例となるそうです。
3)生駒高俊:家臣間の対立を収拾できず、17万石余を失った
1640年に讃岐高松藩の生駒高俊は、家臣間の対立から起きた御家騒動を収拾できず、幕府から厳しい処分を受け、讃岐の領地を失い、出羽矢島※で堪忍料として1万石を与えられることに。
※)現在の秋田県由利本荘市矢島町。
この事件は、藩主個人が「狭量だった」と断定できる事例ではなく、高俊は幼少で家督を継ぎ、後見や家臣団の対立が藩政を左右していたそうです。
しかし、狭量という観点からは、藩内の異なる派閥を調整できず、対立を深刻化させたことに注目すべきだそうです。
藩主に求められるのは、すべての家臣の意見に同意することではなく、対立する家臣を調停し、共通の規則に従わせ、藩政を維持することのはずで、それができなければ、家臣同士の争いが藩全体の危機になるとのこと。
生駒家の事例は、不寛容を藩主個人の性格としてではなく、異論や派閥対立を処理する統治能力の問題として考えるうえで参考になるそうです。
4)3つの事例から何がいえるか
上記三例は性質が異なり、今川氏は家中の刷新と離反の関係、豊臣政権は権力継承の問題、生駒家は家臣間の対立と統治責任が中心。
いずれも「狭量だったから衰退した」と単純化するのではなく、排除や対立がどのように支配基盤を損なったかを見る必要があるようです。
5)現代社会とのつながり
特に重要なのは次の区別。
・ 厳格な統治:共通の規則を定め、違反に対して公平に対応する。
・ 狭量な統治:自分と異なる意見や立場を、規則に基づいて処理するのではなく、敵視して排除する。
前者は組織の秩序を維持するために必要な場合があり、後者は組織にとって有益な人材や情報まで失わせる危険があるとのこと。
戦国大名であれば、離反する国衆や対立する家臣を失うことは、兵力・地域情報・徴税基盤を失うことにつながったそうです。
現代国家であれば、少数民族や宗教的少数者、反対意見を持つ市民を制度的に排除することで、専門知識、経済活動、政策への批判的情報を失う可能性があると考えるべきだそうです。
つまり、歴史から得られる重要な問いは、「異論を許すかどうか」だけではなく、「異論を持つ人々の能力を、共通の制度の中で活用できるかどうか」なのだそうです。
《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《
上記三例は「お家騒動」と片付けがちですが、組織論で分析すると「能力や人材の不活用」という結果が共通項となりそうです。
その結果を招く因子が「個人の狭量」あるいは「個人に狭量を強いる環境」ということになるでしょうか?
であれば、日本にも「狭量による国力減退」の要素が十分にあると考えるべきでしょう?
となると、狭量の芽は早めに摘んでおいた方が将来の為ということになりそうです。
次に続きます。



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