
当時の東京(中央区)での対空襲消火作業。朝永博士が遭遇されたと思われる城北大空襲は1945年4月13‐14日にありました。こちらから転載させて頂きました。
朝永振一郎博士が、いわゆる「テーブル上」の研究として島田の海軍研究所で行ったレーダー信号源の研究ですが、実は、朝永博士が単身赴任で島田に住み始められた頃(1945年4月)には、殆ど終了していたようです。その証拠は次回に改めて列挙します。
島田研究所での朝永博士は、主として、研究所員が試作する装置の動作や性能と構築済みの理論との擦り合せを業務とされていたようです。
理論物理学の研究者には、実験担当者との関係において大別される二種類のタイプがあるようです。朝永博士は、理化学研究所時代の上司の仁科芳雄博士の影響もあってか、実験担当者との交流を重視されていて、島田の研究所でもそれを実践されていたようです。
実験研究では、一般に、その進み具合によっていわゆる「待ち時間」が生じます。結果を出すための準備の時間です。装置を試作してみたり、改良してみたり、測定機器の調整を行ってみたり、、などに費やす時間です。
この「待ち時間」は、当然ですが、朝永博士の「待ち時間」でもあったはずです。
とすると、朝永博士が「テーブル下」の研究をも島田で行う時間があったのではないかと考えるのは自然です。
もちろん、職場である研究所でそれを行うことはなかったはずですが、稲荷町の宿舎に帰った後、あるいは「朝永ノーベルロード」を歩いている時に、量子力学の課題の検討に時間を割いておられたのではないでしょうか?
東京では空襲に追われ、焼夷弾の消火活動にも当たり、食事の準備さえも自ら行っていたとされる朝永博士です。東京文理科大学も1945年5月の空襲で建物の大半が焼失してしまいました。
対して、島田の宿舎では平口家による上げ膳据え膳だったようです。先述の小学生U.A.氏は実際に朝永博士のお世話をした婦人にインタビューをしていてその旨を確認しています。空襲の頻度も激減したはずです。皆さんならば、この環境の改善をどう活かしますか?
もちろん、多くの方々が命を落とされた戦時中に海軍の研究に当たっていた者としての責任感からと拝察されますが、朝永博士は島田における自らの研究課題の実施に全く言及されてはいません。
書籍「回想の朝永振一郎(松井巻之助編、みすず書房)」によれば、「先生ほど公私の区別を明らかにした人はいない」とされた父親の朝永三十郎博士の性格を「まったく受け継がれた」という朝永博士です。
さもありなんかと。従って、我々は推論を重ねるしかありません。
また、朝永博士ノーベル賞受賞のニュース動画が残っていましたので、こちらにアップしました。ご高覧を乞う次第です。
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの初回はこちらにあります。
コメントを残す