
ダンコフ博士。こちらから転載させて頂きました。

赤色矢印が繰り込み理論発案の可能性のある期間。緑色帯が朝永博士の島田単身赴任期間。
さて、朝永博士のノーベル賞受賞講演に戻ります。
朝永博士は、繰り込み理論の完成に至るまでの思考上の経緯を講演の中で説明されています。また、その中で参考にした重要な文献を挙げておられます。それらを以下に示します。
まず、1937年から1939年までのドイツ留学が発端だったと述べておられます。留学先のハイゼンベルク博士との「場の反作用」の議論がそれだったようです。
ハイゼンベルク博士はすでに論文化の準備を進めていて、その出版前のゲラ刷りを朝永博士は直接手渡しされたようです。これを、便宜上、A論文と書くことにします。論文誌掲載は1939年1月です。
次に、パウリ博士とフィエツ博士の1938年の論文に触れておられます。これをB論文と書くことにします。
この論文は、以前に紹介したように、朝永博士が愚問会メンバーに対して1944年冬に示しています。
その次はダンコフ博士(Sidney Michael Dancoff)の論文です。1939年5月に米国専門誌に掲載されました。これをC論文と書くことにします。
最後は坂田昌一博士の英語論文で1946年の秋にProgress of Theoretical Physics誌に掲載されています。これをD論文と書くことにします。
朝永博士は受賞講演の中で「D論文をヒントとしてC論文の手法の改変を発案し、若者たちに具体的な計算を委託」と述べておられます。
そして、朝永グループの様々な回顧録によると、1947年11月、C論文の間違いを発見し、その修正を通じて繰り込み理論の「完成」を見ることになったということです。
以上から言えることは、朝永博士が繰り込み理論の完成に至る思考経緯は次のようなものであったのではないかということです。
「関連する思考をドイツ留学中に開始し、A論文、B論文、C論文、D論文を選択し、それらを参考にしつつそのとりまとめとなるアイディア『C論文+D論文』を得た。若手の協力を得て検証のための計算を進めたところ、C論文の足りないところを発見し、それを補完することによって繰り込み理論の完成に至った。」
この経緯推論が正しければ、アイディア『C論文+D論文』を得たタイミングが繰り込み理論の発案※のタイミングということになります。
※)「完成」ではなく「発案」です。「無」から「有」を生み出すタイミングです。
そのタイミングは「D論文掲載の1946年秋」から「C論文の欠陥を見出した1947年11月のしばらく前の若手に計算の指示を出した時期」の間のどこか、ということになります。
これには朝永博士の島田単身赴任期間は含まれません。島田市民としては誠に残念なことに、繰り込み理論発案との地縁は島田に無かったということになります。0%です。
ところが、、、。
このシリーズはこちらに続きます。また、このシリーズの最初はこちらにあります。
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