19cw023: 19世紀の戦争_023 ナポレオン戦争_10 終戦までの流れと戦後処理

ジョージ・クルックシャンクによる『十二夜』。ウイーン会議の主要人物を描いた当時の風刺画。こちらから転載させて頂きました。

「ケーキが切り分けられる前に会議は解散した」は、クルックシャンクが1815年4月に描いた続編で、エルバ島からの脱出後にナポレオンが会議を混乱させる様子が描かれているそうです。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

前回はナポレオン戦争(1803年~1815年)当時に発生した「戦争で巨万の富を得た戦争成金」に対する社会的批判の勃発を俯瞰しました。

戦争成金に対する批判は世紀を越えて継続されます。戦争ビジネスに浸かっている方々、参入を考えている方々、その覚悟がありますか?


さて、今回はフランスが惨敗したトラファルガー海戦(1805年(開戦2年後))以降のナポレオン戦争の流れを終戦まで見てゆきます。

1)フランスの最盛期(1805~1807年)
対仏大同盟との戦争
1805年に第三回対仏大同盟(イギリス、ロシア※、オーストリア)が形成されます。
※)ロシア皇帝アレクサンドル1世は、イギリスと協調してナポレオンの勢力拡大に対抗する姿勢を明確にし、ロシア軍を中央ヨーロッパに派遣し、フランスとの直接対決が始まったようです。
⇒この頃のイギリスはロシアと同盟していたのですな、、、。
海戦でフランスはイギリスに敗北(トラファルガー海戦)し、制海権を喪失。
陸戦では、アウステルリッツの戦いで同盟国のロシア・オーストリアはフランスに大敗。
1806年に神聖ローマ帝国が解体される。
第三回対仏大同盟に加わらなかったプロイセンはフランスに宣戦布告したものの、イエナの戦いで惨敗。
1807年にロシアとプロシアはフランスとティルジット条約※を結ぶ。これによりフランスは大陸で無敵状態に近づく。
※)プロイセンの領土大幅削減(ワルシャワ大公国やウェストファリア王国創設)と重い賠償金、ロシアの大陸封鎖令(下記)への参加が定められた。

2)大陸封鎖令とフランス支配の拡大(1806~1811年)
1806年にフランスは大陸封鎖令を発布
目的はイギリスの経済的孤立。並行して、フランスは同盟国や衛星国を拡大(スペイン、イタリア、ドイツ諸国など)。
大陸封鎖令は、逆に、各国経済を圧迫※したようです。
※)各国はこの時点でイギリスとの貿易(輸出入)に依存していたとのこと。
⇒現代にも類似の状況が、、、。貿易重視の国策の方がはるかに賢いように感ずるのは筆者だけでしょうか?
スペインでは半島戦争(1808~)が勃発し、ゲリラ戦でフランス軍が消耗。
フランスの大陸支配は広がったものの、内部から不満が増大しつつあったようです。

3)ロシア遠征の失敗(1812年)という転機
ロシアが大陸封鎖令を守らなくなったためにナポレオンははるばるロシアまで遠征したとのこと。
⇒武力による問題解決優先の代表例でしょうか?
モスクワ占領に成功するもロシア軍の焦土作戦、厳寒と補給不足、大撤退などで大軍が壊滅※したそうです。
※)フランス兵約33万人とポーランド、ドイツ諸邦、イタリア、ナポリなどの同盟国兵約27万人の合計60万人の大陸軍が最終的には10万人程度で撤退したようです。死者行方不明者は50万人規模と言われています。
⇒主戦論者はこのような結末の可能性を念頭に置かないものなのでしょうか?


4)敗北と退位(1813~1814年)
欧州諸国による第六回対仏大同盟が1812年に形成されフランス軍は圧倒され続けたようです。
1813年にはライプツィヒの戦いでフランスは大敗。
1814年には連合軍がパリを占領。ナポレオンは皇帝退位に追い込まれエルバ島へ流刑※となったとのこと。
※)連合国(特にイギリスとオーストリア)がナポレオン流刑を決定し、フランス王政復古派が国内承認という経緯だったようです。

5)百日天下と最終的敗北(1815年)
ナポレオンは1815年にエルバ島を脱出し政権復帰※しますが、百日天下で終わったそうです。
※)王政復古が支持されず、フランス軍の指揮官や兵士達および国民がナポレオンに協力したとのこと。
ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセンにフランス軍は敗北して百日天下は終了。
ナポレオンは(エルバ島よりもはるかに遠方の)セントヘレナ島へ流刑され、1821年に死去(52歳)。

6)戦後処理
ウィーン会議(1814~1815年)
正統主義※や勢力均衡※※が結論。王政復古とヨーロッパ秩序の再編が進んだそうです。王朝と外交秩序の維持を優先する政策だったといえるようです。
※)革命や軍事独裁で揺れた秩序を安定させる目的という考え方のようです。
※※)フランスや他の一国が支配的になってヨーロッパを再び混乱させるのを防ぐ目的だそうです。
ウィーン会議の結果、ヨーロッパは約40年間、大きな戦争を避けることができたということになっているようです(=「ウィーン体制」)。
が、民族主義や自由主義の要求は無視されがちで、後の動乱の原因ともなったようです。


筆者の独断的な見方をご案内しますと、ナポレオン戦争は「武力による問題解決や制圧は、最終的に民衆の経済に負ける」という実例・好例のように思えます。


次回は、「ナポレオン神話の罪」についてご案内する予定です。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。「ナポレオン戦争」ミニシリーズの初回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争」  

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