19cw030: 19世紀の戦争_030 19世紀前半の国際秩序の変化(ウィーン体制との関係)

第5代アメリカ合衆国大統領(在任:1817年~25年)のジェームズ・モンロー(James Monroe、1758年~1831年)。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

本シリーズはフランス革命戦争とナポレオン戦争からキックオフしましたが、戦争の本質の一部とも言える側面(所得税や国民皆兵、戦争国債などの発明、戦争を問題解決の手段とした民衆、戦争成金や平和運動の嚆矢など)が掘り出せたのではないかと考えています。

この点については、後ほど改めてまとめてみたいと考えています。

さて、ここ数回は第一次アフガン戦争に至るまでに発生した戦争でナポレオン戦争(1803年~15年)を除くものに焦点を当ててきました。

ナポレオン戦争はヨーロッパの「最初の大戦」だったとする見方もあるようです。

フランスとイギリスの争いが中心で、そこに周辺各国(ロシアまでも)が関与していました。

対して、仏英から離れた場所で19世紀の最初の三分の一の間に生じたのが次の戦争でした。

メキシコ独立戦争(1810年9月~21年9月)
米英戦争(1812年6月~15年2月)
ギリシャ独立戦争(1821年2月~29年9月)
テキサス独立戦争(1835年10月~36年4月)


ナポレオン戦争を収束させるための動きがウィーン会議(1814年~15年)で、それにより構築された国際秩序がウィーン体制でした。

メキシコ独立戦争と米英戦争はウィーン会議よりも前に始まっていますが、まったく無関係という訳ではなさそうです。また、ギリシャ独立戦争とテキサス独立戦争はウィーン会議で国際的な秩序の構築を目指した中で勃発しています。

これらの戦争とウィーン体制との関係を押さえておくことは、「戦争と国際秩序の関係」を理解する上で参考になると考えました。

例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。


(0)前提:ウィーン会議とウィーン体制とは?
》ナポレオン戦争後に列強(英・墺・普・露など)が構築したもの。
》目的は①勢力均衡、②正統主義(王朝の正統性尊重)、③革命・民族運動の抑圧などにあったようです。
》すなわち「革命と民族自決を抑え、秩序を維持する体制」と総括できるとのこと。

(1)メキシコ独立戦争(1810年9月~21年9月)とウイーン体制
》スペインはナポレオンに侵攻されて弱体化し、植民地支配が揺らいだという背景があり、メキシコ独立運動が加速。
》ウィーン体制により ヨーロッパでは「革命や独立運動を抑えよう」とする動きが強かったのに対して、メキシコでは独立が進むという関係。
》ウィーン体制はヨーロッパの外での現地の不満を抑えられず、ラテンアメリカは啓蒙思想・アメリカ独立の影響で「独立化」という逆の動きが生じたとのこと。
⇒ラテンアメリカの独立は主に19世紀初頭に集中して起こったそうです。以下に主要な流れを年表形式で。
》》1804年ハイチ(フランスから独立、世界初の黒人共和国)
》》1811年パラグアイ(スペインから)
》》1816年アルゼンチン(同上)
》》1818年チリ(同上)、コロンビア(大コロンビア)(同上)
》》1821年メキシコ(同上)、中央アメリカ(グアテマラなど)(同上)
》》1822年ブラジル(ポルトガルから)
》》1824年ペルー(スペインから)、ボリビア(同左)
》》1825年ボリビア(同上)
》》1828年ウルグアイ(ブラジルから)

(2)米英戦争(1812年6月~15年2月)とウィーン体制
》意味
》》戦争終結はウィーン会議と同時期。
》》イギリスはヨーロッパ秩序維持を優先し、対米妥協へ。
》》米英は対立より通商協調へ転換。
⇒「対立より通商協調」は英仏間でも以降定着。これによって「戦争が無いと困る人」が出現したのでは?その人たちは何をしたのでしょうか?
》国際秩序上の変化
》》大西洋世界での英米対立が緩和。
》》英国は「海洋覇権+均衡維持役」へ。
》》アメリカは欧州秩序の外側で独自発展(後のモンロー主義へ)。
》ウィーン体制を補強する形で英米関係が安定化したそうです。

(3)ギリシャ独立戦争(1821年2月~29年9月)とウィーン体制
》体制への挑戦と位置付けられる:民族自決運動であり、本来ならウィーン体制は鎮圧する立場にあったはず。
》しかし…
》》英・仏・露が介入。
》》1830年にギリシャ独立承認。
》なぜ例外扱いだったのか?
》》ロシアの南下問題(東方問題)。
⇒「ロシアの南下」が錦の御旗とされる理由を明らかにしたいところです、、。当時のロシアは人口が多いので陸軍は強かったものの、経済力や国力はさほどでもなかったようです。さらに多民族で低人口密度という足枷も抱えていたようです。
》》列強間の勢力均衡を優先。
》》世論(自由主義・フィルヘレニズム)の影響。
》》正統主義より勢力均衡が優先された最初の大きなとなり、ウィーン体制の「理念」が揺らぎ始めたとのこと。

(4)テキサス独立戦争(1835年10月~36年4月)とウィーン体制
》体制の外側の出来事と位置付けられる。
》》ラテンアメリカ独立(1820年代)は事実上の黙認。
》》欧州列強は本格介入せず。
》背景
》》1823年のジェームズ・モンローによるモンロー主義※:「欧州は米州に干渉するな」という原則。
※)モンロー主義は米大統領ジェームズ・モンローが提唱したアメリカ大陸とヨーロッパ諸国の相互不干渉を原則とする外交政策です。欧州の紛争に不介入とする一方、米大陸への欧州の介入を排し、西半球における米国の指導権(孤立主義的・排他的)を確立する理念。
⇒20世紀前半の戦争を見て「東半球に不介入」という理解がされやすいようですが、「西半球に手を出すな」という意味合いも強いということですね。
》国際秩序の意味
》》ウィーン体制の影響は欧州中心に限定された。
》》アメリカ大陸では米国主導の秩序形成が進行した。
》》英仏は牽制に回るが直接対抗せずという姿勢。
》ウィーン体制の地理的限界が明確化されたようです。

⇒「戦争が無いと困る人々」は、「アメリカが西半球に手を出すな」と言っているのだから、「それでは東方を、、」と考えたりしなかったのでしょうか?

⇒モンロー大統領の当時、新興国で欧州列強よりも脆弱だったアメリカの主義主張が受け入れられたのは何故か?その背景にはイギリスの海軍力があったようです。イギリスには、ラテンアメリカを自由貿易市場として維持したい、スペインなどが再支配すると貿易の自由が失われるという思惑があり、ヨーロッパ諸国の再植民地化に反対する立場を取ったとのこと。


次回からは「第一次アフガン戦争」についてご案内する予定です。

このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらに飛びます)。また、このシリーズの初回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争
・「ナポレオン戦争
・「テキサス独立戦争」 

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