
「庚申塚 その3」でご案内した「ひかり拓本」の撮影を重ねるとともに解読を進めました。追記したところが進捗分です。黄色文字は解読に自信、オレンジ色文字は「おそらく」、水色文字は「文脈と文字形状から」、そして赤色文字は「??」を表します。
このシリーズでは大日山瞰川寺の境内にある石碑石像と建築物をひとつひとつご案内しています。
今回は庚申塚の六回目です。初回はこちら、二回目はこちら、三回目はこちら、四回目はこちら、五回目はこちらにあります。
ひかり拓本の文字解読作業にすっかり嵌ってしまいました。
知らなかった漢字や言葉を逐一調べるなかで、江戸時代寛文年間の田園の風を感ずるようになってしまいました。
さて、閑話休題。
刻印文字の解読が少し進んだのでその結果をご案内します。
前回は枠の内部の最初の二行と途中まででしたが、三行目以降の解読を進めました。
どうしても読み取れない文字があるため、そこに固執してしまうと全体像の把握が遅れてしまうので、読み取れる部分から進めることにしました。
枠内一行目(最右行)ですが、謎の「大津」は解明できませんでした。
再撮影の結果、「大」の読み取りには自信が持てるようになったのですが、「津」は相変わらず微妙です。
第二行は少し進みました。「岸村居住」まで読み取れていたのですが、その下の「白衣(びゃくえ)」が判明しました。
白衣には観音菩薩の象徴(白衣観音)という意味と、在家信者、白衣の行者、僧籍に入らない修行者などという意味があるようです。江戸期石碑では実例が多いそうです。
上に「岸村居住」とあるので、観音様ではなく後者の意味と理解しています。
その下の文字の解釈が難しく、苦戦しています。
三行目はある程度進みました。「寄進数年間毎六慶禁、、、」が現時点での解読結果です。
「間」は「閏(うるう)」かもしれません。また、「慶」も「庚」かもしれません。「数」についても絶対の自信が持てない状況です。
ですが、外枠にある「賑(恤※)(しんじゅつ)」との関連が強い「寄進」という文字が読み取れたのは筆者にとっての朗報です。
※)最近、またまた嵌ってしまった韓流ドラマ(時代劇)に「恤」という文字が使われていました。飢饉の際に裕福な両班が庶民に米を供出するという事柄(救恤米)を表していました。
⇒ちなみに、Googleによる説明は次のようです。救恤米(きゅうじゅつまい)は、江戸時代に飢饉、火災、水害などの災害時に、幕府や藩が生活困窮者へ支給した救済用の米(お救い米・御救米)です。当時は1日約5合が目安で、寛政期以降は日常的な窮民救済にも使われました。民間による同様の支援は「合力米」や「施行米」と呼ばれました。
⇒本石碑が公的な賑を記念したものなのか、民間支援の記念碑だったのか、謎解きはこれからです。
念のために「慶禁」という言葉を解説しておきます。これが正しいかどうかは今後の文字の解読の如何に掛かっています。
慶禁:慶事(お祝い事や祭礼など)の期間中、または特定の休業期間に、政務や公務を休み、百官(官吏)が執務を行わないことだそうです。
三行目全体の意味はいまひとつはっきりしません。
四行目の冒頭二文字の読み取りができていませんが、その下はかなり明確です。
「連座謹唱弥陀名号、、、」と読めます。
「連座して謹んで南無阿弥陀仏を唱える」という意味のようです。
「弥陀名号(みだみょうごう)」が指す内容は「南無阿弥陀仏」だそうです。より正式で説明的な言い方で、教義的・注釈的な文章、説教文などで多いそうです。
大日山瞰川寺には真言宗系の事物が多いのですが、寛文年間のには浄土宗的な要素も含まれていたのでしょうか?
五行目は苦戦しています。もう少し時間が掛かりそうです。
六行目の冒頭二文字ははっきりしませんが、その下は読み取れました。
「供養奉建立観音菩薩、、、」とあります。
最初の二文字を「供養」し、観音菩薩を建立したということのようです。
この解釈が正しいのであれば、観音菩薩像が別途存在するはずですが、現時点で該当するものを境内に見いだせていません※。
※)寛文年間ではなく江戸中期に建立された観音像はいくつかあります。こちらが一例です。
とまれ、ひかり拓本の撮影方法に改善の余地がありそうなので、調査の継続を進めます。
前回述べたように、本石碑建立360周年の本年10月28日までの完全解読を目指して、鋭意努力する所存です。
解読がさらに進んだところで改めてご案内する予定ですが、慎重に行っていますので時間が掛かるかもしれません。
このシリーズはこちらに続きます(最新記事がアップされたらそちらが表示されます)。また、本シリーズの初回はこちらです。
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