
先般ご案内の「ひかり拓本」について解読が進んだ分を追記しました。黄色文字は解読に自信、オレンジ色文字は「おそらく」、水色文字は「文脈と文字形状から」、そして赤色文字は「??」を表します。
このシリーズでは大日山瞰川寺の境内にある石碑石像と建築物をひとつひとつご案内しています。
今回は庚申塚の五回目です。初回はこちら、二回目はこちら、三回目はこちら、四回目はこちらにあります。
前回は「意外な展開」と題しました。庚申塚と伝わっている石碑が「困った人々に救済奉仕を行った」記念碑である可能性が浮上したためです。
前回の解釈について、ChatGPTは次のようなコメントを与えてくれました。「漢字の構造の解釈が小学校以下」と私が罵倒したので、ゴマをすっている可能性が無いこともないのですが、、。ご参考まで。
「江戸前期の信仰と社会事業が交差した、かなり上質な遺例です。正直に言うと、地方史・民俗学・仏教美術、どの分野から見ても『当たり』です。もし写真が残っていたら、研究者が喜ぶタイプですね。」
信じてよいのでしょうか(笑)?
刻印文字の解読が少し進んだのでその結果をご案内します。
まずは外枠です。
右側最後を「年」と読む確証を得ました。また、左側の解読が進み、「丁未(ひのとひつじ)」に加えて「菊月拾一日※」が読み取れました。「拾」は「十」と読みます。
※)最後の「日」の解読については自信があるわけではないのですが、現在は文脈でこの通りとしています。
ちなみに、寛文七年菊月十一日は1667年10月28日に当たるようです。
360周年となる今年の10月28日までには全文解読を達成したいところです。
さて、枠の内部には縦9行の刻印文字があるのですが、そのうちの最初の一行と半分の解読が、完全ではありませんが、意味が読み取れる程度に達しました。
なお、誤解読の可能性も含まれますので、その旨をご了承ください。間違いが判明次第、修正を加える予定です。
以下、赤字は判読に自信が持てない部分です。
最初の行は次のように読めました。
「大日本國東海道駿刕志駄郡大津」
「大日本國」ですが、江戸時代にもこの表現が使われていたようです。「大日本史」の編纂作業を開始したと言われる水戸光圀が水戸藩主となったのが寛文元年(1661年)なので納得できるところではあります。
「駿刕」は駿州(=駿河國)のことです。
「刕」については説明が必要です。これは「州(しゅう)」の異字体(別の形の漢字)で、主に古文書や古地図、特定の固有名詞に使われる文字なのだそうで、刂(リットウ)を3つ重ねた形で、読みは「シュウ」が一般的。意味は「州(くに、地域)」と同様なのだそうです。特に「信刕(信州)」や「奥刕(奥州)」のような地域名や、人名、地名に使われたそうです。
「志駄郡」は「志太郡」です。これも江戸時代以前からの地域名なので納得です。なお、「駄」は文字として否定的な意味が含まれるのですが、この表記が古文書などにあるようです。
さて「大津」です。
写真では猿像の陰に隠れているので再調査が必要ですが、現時点でこのように読めると見ています。
「大」は「木」かもしれません。「津」のサンズイは確実ですが、つくりの解読には自信がありません。
内側二番目の行は「岸村居住、、、」と読み取れます。これはかなり確実です。
ここまでのところ、現在の最大の悩みは「大津」と「岸村」の関係が不明という点です。
大津は島田市の目抜き通りの一つとして「大津通」があるように馴染みの地名です。
ただし、「大津村」は明治になって落合村、大草村、野田村、尾川村と千葉山が合流して形成されたので、江戸寛文年間の村名ではなく、上記の大津とは異なる可能性があります。
野田、落合、大草、尾川の辺りは大津郷と呼ばれた天正年間からの歴史のある地域のようですが、岸村(現在の岸町)とは白岩寺山や阿知ケ谷村を隔てて距離があります。
もう少し深い調査が必要と思われます。
とまれ、現在の島田市岸との整合性のよい地名表記が読み取れたため、ご案内した次第です。
この庚申塚が他所から移設されたものではなく、大日山瞰川寺の所在地である島田市岸(ないし岸町)に建立されたことが明示されたと考えています。
解読がさらに進んだところで改めてご案内する予定ですが、慎重に行っていますので時間が掛かるかもしれません。
このシリーズはこちらに続きます(最新記事がアップされたらそちらが表示されます)。また、本シリーズの初回はこちらです。
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