
↑ 「庚申塚 その3」でご案内した「ひかり拓本」の「猿像」の上の部分。再撮影の結果、文字の解読が進みました。文字の輪郭がグラデーションとなっているものが今回追加分です。字の本体については、黄色文字は解読に自信、オレンジ色文字は「おそらく」、水色文字は「半信半疑」、そして赤色文字は「??」を表します。
このシリーズでは大日山瞰川寺の境内にある石碑石像と建築物をひとつひとつご案内しています。
初回はこちら、二回目はこちら、三回目はこちら、四回目はこちら、五回目はこちら、六回目はこちら、七回目はこちらにあります。
ひかり拓本の文字解読作業を継続しています。
撮影時の照明を少し明るいものとしてみたら、露わになった文字が増えました。
今回、猿像の上の文字9列のうち、最初の4行がほぼ読み取れたのでご案成します。
まず、最右の第一行です。
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「大日本國東海道駿刕志駄郡『大津』『庄』」としました。
「刕」は以前にご案内したように「州」のことです。
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「大津」が謎でしたが、さらに下に一文字あり、どうやら「庄」と読めることが分かってきました。
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「足利義満御教書」という鎌倉・南北朝期の武家公文書(今川古文書写として保存されている)の一部に、「駿河国大津庄・徳山郷・安倍山・安東庄等事」 ※と見える条文が確認されるそうです。
※)「大津」は「安東(現在の高級住宅地)」よりも前です、、、西側だから当たり前か、、(笑)。
次の行に「岸村」がありますので、「岸村は大津庄の一部」という関係が窺われます。
鎌倉・南北朝期の「大津庄」は、明治になってできた「大津村」よりはかなり広い範囲だったのではないかと思われます。
大井川左岸にあった牛尾山、その東側の東西に細長い地域が「大津庄」だったのではないでしょうか?
本稿では「岸村は大津庄の一部(と江戸時代寛文年間に認識されていた)」という立場を取ることにします。
二行目は「岸村居住白衣眞俗筆鳴三丗」と読み取りました。今回新たに読み取ったのが「眞俗筆鳴三丗」という部分です。
これは全体で「岸村に居住する在家信者(白衣)『眞』、その俗名が『筆鳴』で年齢三十歳」という人を表しているようです。
前回ご案内したように石碑正面の下の方に10名ほどの人名が刻まれていますので、この「眞」氏はその取り纏め役立ったのではないかと想像されます。
ただ、「筆鳴」という俗名は農村としてはかなりポップな名前なので、風流人だったのではないかと想像しています。
三行目は「寄進数年間毎六『度』禁除驅賑」と読みました。今回新たに読み取ったのが「除驅賑」という部分です。
「度」は、これまで「慶」と読んでいたのですが、文脈から「度」としました。
「毎六度」は「六度にわたり」であり、「禁除」は「負担免除」という意味のようです。「驅」は「駆」の旧字で、「驅賑」※で「救済を行き渡らせた」という意味を持つとのこと。
※)「賑」は賑恤(しんじゅつ)のことで、弱者救済のことです。
これは全体で「数年間寄進を行い、六度にわたり負担を免除し、救済を実施した」という意味で、外枠を関連付けると「その集大成が丙午年の賑」と解釈できそうです。
四行目は「各白『蓮』座謹唱弥陀名号侍申」と読みました。今回新たに読み取ったのが「各白」と「侍申」です。
「蓮」は、以前に「連」と読んでいたのですが、今回の撮影で草冠が現れたため「蓮」としました。
この一行は浄土教(念仏)の文脈と捉えることができるようで、「各々(心を合わせて)申し上げる。蓮座を念じつつ、謹んで阿弥陀仏の名号を唱え奉る。」という意味のようです。
三行目と四行目は「救済事業+死者供養(ないし功徳回向)」という対を成しているようです。
以前にも触れましたが、寛文の頃は小氷河期に当たり、災害や不作の多い時期だったようです。救済や供養は不可欠な行いだったと考えられます。
残りの五行、頑張ってみます。
これまで述べたように、本石碑建立360周年の本年10月28日までの完全解読を目指して、鋭意努力する所存です。
解読がさらに進んだところで改めてご案内する予定ですが、慎重に行っていますので時間が掛かるかもしれません。
このシリーズはこちらに続きます(最新記事がアップされたらそちらが表示されます)。また、本シリーズの初回はこちらです。
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