dbme037: 大日山瞰川寺の石碑と御地蔵様(37)善光寺巡礼記念碑 その3 こちらも意外な展開

照明を工夫した撮影で浮き上がった刻印文字を解読した結果(一部)。

上掲記念碑が建立された年に史上最大級の略奪をした英海賊のヘンリー・エイブリ。福沢諭吉はこういうのを見倣いたいと思ったのですかな、、。こちらから転載させて頂きました。

このシリーズでは大日山瞰川寺の境内にある石碑と御地蔵様をひとつひとつご案内しています。

今回は善光寺巡礼記念碑の3回目です。再調査の結果をお知らせします。2回目はこちらです。

再調査の際には夜間の境内で照明に工夫をした撮影を行いました。

特に意識していなかったのですが、結果として、こちらの奈良文化財研究所「ひかり拓本」に近い手法となりました。

この手法によると肉眼では全く見えない文字が浮き上がってきます。

庚申塚についても「意外な展開」と題した投稿をしましたが、こちらの善光寺巡礼記念碑についても「意外な展開」を示す文字列が顕わとなりました。

上掲の写真をご高覧下さい。

縦の文字列が三行刻印されていることは以前にもご案内しました。

まずは、中央の文字列に注目してください。

「奉建立南無大悲観世音菩薩」とあります。以前は最初の三文字を二文字と誤解し「光三」と誤読していましたが、「奉建立」が正しいようです。

「建」のえんにょうの払いと「立」の横線二本が強く見えたため、「三」と誤読しました。また、「奉」は「光」と形が似ていましたが、新しい撮影では横線が多数現れたので解読結果を修正ました。

江戸時代の石碑の文言としても妥当性が高いようです。


次に、左側の文字列をご覧ください。

「為二世安楽元禄八『年』八月吉日」と読めます。

「年」に当たる文字がどうしても「年」に見えないため、「完全な解読」としてありませんが、文意からすると妥当のようですので、取り敢えずはこの解釈で進めます。

「為二世安楽」というのは仏教系の石碑で頻出する表現だそうで、「現世と来世の両方が安楽であるように」を意味するようです。

「元禄八年」は西暦1695年です。この年に建立されたとすると昨年(2025年)で330年が経過していることになります。

この頃の日本では徳川綱吉の「生類憐れみの令」が強化されていたようです。前年に松尾芭蕉が死去したそうですが、芭蕉俳諧が広がりつつあったとのこと。

海外では、スコットランド銀行が7月に設立されたそうです。前年のイングランド銀行設立に続いたもので、英国の金融国家の整備が進められたようです。その一方で、英国海賊がインド洋で大暴れし、現代の価値で2億ドルに上る財宝を略奪したそうです。

また、小氷河期の影響でしょうか、1690年代にはヨーロッパ(特にフランスや北欧)で寒冷化による不作が続き、大規模な飢饉が発生したそうです。
⇒このような時期に巡礼できた分、駿河國志太郡岸村の人々は、自然災害が多かった時期とはいえ、まだマシだったのかもしれません。


さて、驚きは右側の文字列です。

「西善坂東秩父湯殿山順礼」とあります。

筆者は、この文字列が顕わになる前、以下のような文言を準備していました。

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大日山瞰川寺には善光寺で有名な回向柱もあり、善光寺に倣う傾向が強いようです。歴史は善光寺の方が圧倒的に長い(西暦644年開山)のですが、同じ「無宗派」の寺院という共通意識が先輩を慕う形になったのかもしれません。
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ところが、順礼先が善光寺だけではないことが分かりました。坂東から秩父、そして山形の湯殿山までが記されています。

坂東とは、元来、足柄峠および碓氷峠より東の関東地方(相模・武蔵・上総・下総・安房・常陸・上野・下野の八カ国)を指す古称ですが、坂東三十三観音は源頼朝により発願された観音霊場だそうです。最後に善光寺に「お礼参り」に行く慣習があったようです。

江戸時代の秩父巡礼(秩父三十四札所観音霊場)は、西国・坂東と並ぶ日本百観音として、江戸の庶民の間で「日帰りや短期間で巡れる手軽な行楽・信仰」として大ブームとなったそうです。こちらも善光寺に仕上げとして「お礼参り」に行く慣習があったようです。

山形県の月山に連なる標高1,504mの湯殿山は、羽黒山・月山と並ぶ出羽三山の奥の院で、月山・羽黒山で修行した山伏が最後に訪れるもっとも神聖な場所だそうです。

さらに、さらに、もしも冒頭の「西」が「西国三十三所」を意味するのであれば、ちょっとすごいことになります。

この順礼記念碑は「日本百観音を巡った後に善光寺にお礼参りに行ってきた」ことを記念して建立されたことになります。


後に改めてご案内しますが、この記念碑には10名弱の村人と思われる人物の名前が刻まれています。団体旅行で、しかも、徒歩で日本百観音と善光寺、そして湯殿山を巡ったのでしょうか、元禄の頃の岸村の人々は、、、。

あるいは順礼を分割して実施したのでしょうか?

もしも、岸村の人々が一度に踏破したのであれば、そのDNAを受け継いでいる若者にはサッカー選手や陸上長距離選手を目指してもらいたいなどと妄想してみました。


このシリーズはこちらに続きます(最新記事がアップされたらそちらが表示されます)。また、本シリーズの初回はこちらです。

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