
「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。
ここしばらくは、イギリスが清国(中国)に仕掛けたアヘン戦争(1839年~42年、56年~60年)に焦点を移しています。
前回は、そもそも、アヘン戦争の戦場はどこだったのかという基本的な知識を浚いました。結果、戦線は中国全土に広がったというより、「海岸線 → 港湾都市 → 長江水運」を押さえる形で進んだことが分かりました。
そして、イギリスが南京近郊に迫った時点で清国は講和を決断し、南京条約という不平等条約が結ばれます。
ところが、当時の清国の首都は南京ではなく、北京でした。
南京が危くなった時点で清国が大きな決断を下す訳ですが、これを理解するためには当時の南京の位置づけの理解が必要と考えられます。
ということで、当時の南京について調べてみました。
例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。
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当時の清朝の首都は北京でしたが、そのうえで、Nanjing(南京)は、政治・経済・歴史・交通の面で非常に重要な都市だったそうです。
1)「旧都」としての重み
南京は、明朝初期には中国全体の首都だったそうです。
・Beijing = 「北の都」
・南京 = 「南の都」
という名称自体がその政治的重要性を示しているそうです。
明の永楽帝が北京へ遷都した後も、南京は「副都」的な格式を保ち続けたとのこと。
清朝になっても、
・皇族や高官が赴任する重要都市
・南方統治の中核
・儀礼的にも格の高い都市
という位置づけだったそうです。
2)江南経済圏の中心
第一次アヘン戦争当時、中国で最も豊かな地域は「江南」だったそうです。
南京は、
・長江流域
・大運河
・江南の穀倉地帯
・絹・綿・商業都市群
を結ぶ巨大経済圏の要衝だったとのこと。
つまり、北京が「政治の中心」なら、南京周辺は「経済の心臓部」に近い存在だったようです。
そして、当時の清朝財政は、江南地域の税収に大きく依存していたそうです。
3)軍事・交通上の重要性
南京は長江の中流と下流を結ぶ戦略拠点だったそうです。
イギリス軍が長江を遡航して南京近くまで到達したことは、清朝にとって非常に深刻だったようです。なぜなら、
・長江交通を遮断される
・穀物輸送が危険になる
・江南経済が麻痺する
・北京財政にも打撃
という事態が意味されたとのこと。
つまり、南京接近は単なる地方都市への攻撃ではなく、「清帝国の経済中枢への脅迫」だったようです。
でした。
4)なぜ南京条約になったのか
1842年、イギリス軍が南京に迫った結果、清朝は講和に応じたとのこと。そこで結ばれたのが
・Treaty of Nanking(南京条約)
であり、条約名が「北京条約」ではなく「南京条約」なのは、
・戦局の決定点が南京周辺だった
・英軍が長江支配を背景に圧力をかけた
ためだったそうです。
5)清朝にとっての心理的衝撃
イギリス軍の南京接近は、清朝支配層にとって、
「海から来た西洋軍が、中国内陸の大動脈に侵入できる」
ことを示し、これは従来の安全保障観である
・北方騎馬民族への備え中心
・沿岸防備の軽視
を揺さぶる事件でもあったそうです。
南京は単なる地方都市ではなく、
・「南中国支配の要」
・「経済の中核」
・「歴史的権威を持つ旧都」
という、清朝にとって極めて重い都市だったそうです。
《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《
次に続きます。
次は南京条約を中心にご案内する予定です。
このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。「アヘン戦争」ミニシリーズの初回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争」
・「ナポレオン戦争」
・「テキサス独立戦争」
・「第一次アフガン戦争」




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