19cw064: 19世紀の戦争_064_クリミア戦争_1853~56年_9_パリ条約

(抜粋) クリミア戦争に関する俯瞰を一区切りとするために、戦争を終結させたパリ条約について把握しておくことにしました。

フランスの肖像画家Édouard Dubufeが描いたパリ会議の様子「The Congress of Paris, 1856」。写真技術が登場しつつある中で絵画もかなり写実的になったようです。こちらから転載させて頂きました。
パリ条約締結の1856年の日本に目を向けてみると、タウンゼント・ハリス(民主党員)が下田に来航。イメージはジェームズ・ボーグルによる1855年のハリスの肖像画。こちらから転載させて頂きました。同年には蕃書調所が設置されたり、日露和親条約の批准書が交換されたりしています。江戸幕府は黒海におけるロシアの状況を把握していたのでしょうか?

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

 クリミア戦争に関する俯瞰を一区切りとするために、戦争を終結させたパリ条約について把握しておくことにしました。

 例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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0)はじめに
 クリミア戦争(1853~56年)を終結させたパリ条約(1856年3月30日)は、単に戦争を終わらせただけでなく、ロシアの黒海における軍事力を制限し、オスマン帝国をヨーロッパの国際秩序の一員として扱うことを決めた条約とのことです。

1)主な内容
(ア)ロシアとオスマン帝国が講和する
 クリミア戦争でロシア側が敗北したため、ロシアは占領していた地域を返還するなどして戦前の状態に戻したそうです。

(イ)黒海を中立化する
 これがクリミア戦争の核心に近い条項。

 ロシアとオスマン帝国の双方について、

「黒海に軍艦を置かない、黒海沿岸に軍事的な海軍施設を設けない」

という取り決めがなされたとのこと※。
※)英仏の軍艦も黒海に駐留しないことになったようです。

 つまり、ロシアがクリミアのセヴァストポリを拠点として強力な黒海艦隊を再建することを防いだということのようです。

・ロシア → 黒海 → ボスポラス海峡 → 地中海

という南下ルートを制限するための措置。

(ウ)オスマン帝国の領土保全を列強が保証する
 条約では、英仏などがオスマン帝国の独立と領土保全を尊重することが確認されたそうです。

 ここは非常に重要で、

「オスマン帝国を英仏が直接支配する」

のではなく、

「ロシアにオスマン帝国を解体させない」

という国際的な枠組みを作ったことになるようです。

(エ)オスマン帝国を「ヨーロッパの公法・協調体制」の一員とする
 条約の前文では、オスマン帝国がヨーロッパの公法と協調体制の利益に参加するものとして認められることが明記されたとのこと。

 これは外交史上かなり大きな意味があるようです。

 それまでオスマン帝国は、ヨーロッパの列強とは異質な「イスラム帝国」として扱われる面があったのに対して、1856年には、

「オスマン帝国もヨーロッパの国際秩序の一員である」

という扱いになったとのこと。

(オ)ドナウ川の航行を国際化する
 ドナウ川についても、航行の自由を確保し、国際的な管理体制を整えることが決められたとのこと。

 これはロシアがドナウ川下流域・黒海北西部で持っていた影響力を抑える意味を持っていたそうです。

2)「ロシアの完全敗北」ではなかった?
 ここはクリミア戦争を理解する際に注意したいところ。

 ロシアは確かに敗北したが、帝国そのものが解体されたわけではなく、ロシアがクリミア半島を失ったわけでもない。最大の打撃は、

「黒海でロシアが軍事大国として振る舞うことを制限された」

こと。したがって、戦後のヨーロッパ秩序は、

・ロシアの南下を一旦止める
+
・オスマン帝国を存続させる
+
・黒海を非軍事化する

という形になったと考えると分かりやすいようです。

3)長続きしない体制
 これがまた非常に重要。

 ロシアは普仏戦争(1870~71年)でフランスが敗北し、ヨーロッパの勢力関係が変化すると、1871年にパリ条約の黒海中立化条項を一方的に破棄することを宣言。

 1871年のロンドン会議※でこれが認められ、ロシアは黒海に軍艦を再び置けるように。
※)1856年パリ条約を正式に改訂するための会議で、イギリス、ロシア、フランス、プロセイン(新ドイツ帝国)、オーストリア=ハンガリー、イタリア、オスマン帝国が参加。フランスはこの会議に出席すること自体が困難な状況。会議の最初のプロトコルで、「条約の義務から一国が勝手に離脱したり、条約の規定を一方的に変更したりすることはできない」という原則が確認された一方で、「関係する締約国が同意し、友好的な合意によって変更することはできる」とされたそうです。

4)流れの見方
 クリミア戦争は単なる「ロシア対オスマン帝国」の戦争ではなく、黒海・海峡・地中海をめぐる列強の勢力争いだったという話がかなりはっきり見えてくるそうです。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 クリミア戦争全体で約50万~60万人が死亡したとされているようです。その大部分は病気による死亡※だったそうです。
※)当時の戦争の多くにおいて、疾病による死亡が戦闘中の死亡・負傷による死亡を大きく(圧倒的に)上回っていたようです。が、しかし、疾病死の割合は20世紀を迎えるころには激減したそうです。第二次世界大戦中の日本軍は、結局、19世紀の戦い方をしていたと言えるようです。

 大まかな全体像を末尾※に付記します。

 イギリスに関しては戦闘死よりも病死が圧倒的に多かったようで、コレラ、赤痢、チフス、発熱、栄養失調、寒冷・疲労などがその原因だったそうで、ナイチンゲールの活動につながった要因だったようです。 

 次に続きます。

 このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
 このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争」
・「ナポレオン戦争」
・「テキサス独立戦争」
・「第一次アフガン戦争」 
・「第一次アヘン戦争」 
・「アメリカの戦争(米墨戦争ほか)」 
・「クリミア戦争」  

※)【クリミア戦争における死者数(推定値)と特徴】
・ロシア: 約30万~40万人 (戦闘+疾病。最大の損失。)
・フランス: 約10万人前後( 疾病による死亡が非常に多い)
・オスマン帝国: 約10万人以上( 疫病・劣悪な衛生環境による損失が大きい)
・イギリス: 約2万2千人 (戦闘死より病死が圧倒的に多い)
・サルデーニャ王国: 約2千人 (1855年から参戦)

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