19cw065: 19世紀の戦争_065_第二次アヘン戦争_1856~60年_1_概要

(抜粋)19世紀中盤、黒海から極東に目を転ずると、、、。クリミア戦争が終わるやいなや第二次アヘン戦争が勃発しつつありました。今回からは第二次アヘン戦争について俯瞰してゆきます。

現在の円明園。廃墟のままのようです。こちらから転載させて頂きました。
ブチハイエナ。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

 ここしばらくはクリミア戦争について俯瞰してきました。

 オスマン帝国と隣国のロシアのいざこざに対して、英仏が遠路はるばる黒海に出向いたという切り口を筆者は採りました。ロシアの地中海進出を恐れるだけでなく、英仏も地中海の覇権が欲しかったようです。

 国家として開発途中、あるいはかつての大国が衰退中という地域に対して屁理屈に近い理由をつけて戦闘を持ち込む、当時の列強の姿はまさにハイエナ※ともいえるものではないでしょうか?
※)海軍力や陸軍力に注目すれば「覇者」なのかもしれませんが、やっていることは「弱みに付け込む」という「紳士からは程遠い」ふるまいかと。

 その視点から極東に目を転ずると、クリミア戦争の終結からほどなく第二次アヘン戦争が勃発しつつありました。

 今回からは第二次アヘン戦争について俯瞰してゆきます。

 まずは「第二次アヘン戦争の概要」について。

 例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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0)はじめに
 第二次アヘン戦争(1856~60年)は、清朝に対してイギリス・フランスが武力を用いて、通商・外交上のさらなる権益を獲得した戦争。

 清では「アロー戦争(第二次アロー戦争)」、英語では「Second Opium War」と呼ばれるそうです。

1)なぜ起こったのか
 第一次アヘン戦争(1839~42年)で清が敗北すると、南京条約によってイギリスに香港島を割譲し、広州・厦門・福州・寧波・上海の5港を開港。

 しかし、イギリスはさらに

・ 中国全土での貿易拡大
・ 外交官の北京常駐
・ 外国人の内地旅行・通商
・ 関税のさらなる引き下げ
・ キリスト教宣教師の活動拡大

などを求めた※とのこと。
※)この貪欲の源を知りたいところです。

 清朝はこれらを容易には認めなかったため、イギリスは、清との既存条約を改定して、より大きな権益を得ることを目指すようになったそうです。

2)直接のきっかけ:「アロー号事件」
 1856年、広州沖に停泊していた中国人所有の船アロー号を清の官憲が取り調べ、中国人船員を拘束。イギリス側は、

「アロー号はイギリス船籍であり、清はイギリスの国旗を侮辱した」

として抗議。

 ただし、実際には船のイギリス船籍登録が期限切れだった可能性が高く、イギリス側の主張にはかなり無理があった※とのこと。
※)専門用語では「因縁をつける」というようです。

 それでもイギリスはこれを軍事行動の口実として利用。

3)フランスも参戦
 ほぼ同時期、広西省でフランス人宣教師オーギュスト・シャプドレーヌ(Auguste Chapdelaine)が清当局によって処刑されたそうです。

 フランス政府はこれを口実に清への軍事行動に参加。

 つまり、

・イギリス→ アロー号事件
・フランス→ シャプドレーヌ事件

という別々の事件を口実として、英仏共同※の対清戦争に。
※)半世紀前は骨肉の戦いをしていた間柄なのに仲のよろしいことで、、。

4)戦争の経過
 1856年にイギリス軍が広州を攻撃※。
※)アロー号事件を口実・契機として香港総督・領事・海軍当局が武力行使を開始。その後イギリス政府がこれを外交的・政治的に追認していく形で拡大した紛争とのこと。イギリスは宣戦布告もしていなかったようです。日本海軍の真珠湾攻撃はこれを真似したのでしょうか?

 1857年にはフランス軍も加わり、英仏連合軍が広州を占領。その後、英仏軍は北上。

 1858年には、大沽砲台※(天津付近)を攻撃して占領し、清政府に圧力を。
※)中国北京・天津の海の玄関口にあたる大沽(現・天津市浜海新区)に諸外国からの攻撃に備える目的で構築された砲台。渤海湾の西端の海河河口に位置する。海河は5つの主要な川(北運河、永定河、大清河、子牙河、南運河)が天津市内で合流した河川。

 その結果、清は天津条約(1858年)を結んだそうです。

5)天津条約で清が認めたこと
 天津条約は非常に重要。清は、

・ 外国公使の北京常駐
・ 新たな開港場の設置
・ 外国人の中国内地旅行・通商の拡大
・ キリスト教布教の承認
・ 外国人に対する裁判権などの特権
・ 賠償金の支払い

などを認めたそうです※。
※)天津条約締結日は1858年6月18~27日。上記の中で「賠償金支払い」を除く項目のすべてを日本が認めた日米修好通商条約が締結されたのが一か月後の同年7月29日。オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じ年に同様の条約を結んでいるようです。江戸幕府が「清朝敗北を見て」という関係がありそうです。

 さらに重要なのが、アヘン貿易の事実上の合法化。

 ただし、アヘンを条約本文で「自由貿易品」と宣言したのではなく、アヘンに対する輸入関税を設定することでアヘン輸入を事実上公認するという仕組みだったようです。

6)清は天津条約の実施を拒む
 ここが第二次アヘン戦争の後半。

 1859年、英仏側が天津条約の批准書交換のために北京へ向かおうとすると、清軍が大沽砲台で進入を阻止。

 英仏軍は攻撃も、このときは清軍が反撃に成功。

 しかし、翌1860年※、英仏軍は大規模な軍隊を派遣して、大沽砲台を攻略し、天津を占領して北京へ進撃。
※)日本では桜田門外の変が起き、勝海舟らがアメリカに咸臨丸で渡航しています。無関係のようですが、「万延元年のフットボール」という谷崎潤一郎賞の小説がありますな、、、。1860年は万延元年。

7)北京占領と円明園の焼却
 1860年10月、英仏軍は北京に侵入。

 非常に有名なのが、「円明園(Old Summer Palace)※の焼却」。
※)18世紀に清朝が整備した離宮。

 英仏軍の一部が円明園を略奪し※、イギリス軍が報復措置として施設を焼却。
※)円明園から略奪された宝物は大英博物館など主にヨーロッパ各地の博物館に所蔵・展示されているそうです。

 これは中国史上、現在まで非常に強い記憶※として残っているそうです。
※)日中戦争のそれと比較するとどうなのでしょうか?

 一方、紫禁城そのものは焼却されなかったそうです。

8)戦争の終結:北京条約
 清朝は最終的に屈服し、1860年※に北京条約を締結。その結果、

・ 天津条約を正式に承認
・ 外国公使の北京常駐
・ 天津の開港
・ キリスト教活動のさらなる承認
・ 賠償金の増額
・ 九龍半島南部の一部をイギリスへ割譲

などを認めたそうです。
※)筆者の生まれた1960年は、北京条約から100年しか経っていないことになりますな(笑)。1945年敗戦から81年の2026年の現在からの歴史的距離感からすると1860年と1960年は意外と「近い」という印象です。

 さらに、ロシアが仲介役を務めた代償として、清は北京条約によってウスリー川以東の広大な地域をロシアに割譲することに。

 これが後のロシア極東進出、そしてウラジオストク建設に※。
※)そもそものところで、これ以前のロシアの極東開発の歴史を確認したいところです。ちなみにシベリア鉄道建設は20世紀になってからのようです。

9)「アヘン戦争」という名前
 歴史を理解するうえで重要。

 第二次アヘン戦争の主目的が、イギリスによる「アヘン貿易拡大」だけだった、と考えるのは正確ではなく、むしろ、

「第一次戦争で得た条約体制をさらに拡大し、清朝を欧米列強にとってより開かれた貿易・外交体制へ組み込む」※

ことが中心で、アヘン問題はその中の重要な一部分。
※)「欧米列強にとって」という部分には注釈が必要。第二次アヘン戦争以前の各国条約には最恵国待遇が盛り込まれていたため、イギリスの権利獲得は他の列強の権利獲得と同等だったようです。また、清国の国内での貿易を独占するよりも、イギリスが得意とする自由貿易型の国際秩序を清国国内に形成する方に利があるとイギリスが考えたとのこと。さらに、列強間の競争を「列強間の戦争」としないという外交上の配慮もあったようです(配慮の対象は列強でしたが、、)。

 したがって、

・第一次アヘン戦争:「アヘン没収をめぐる紛争」から始まり、南京条約へ
・第二次アヘン戦争:「条約改定を求める英仏の圧力」から始まり、北京条約へ

と整理すると理解しやすいそうです。

10)太平天国の乱
 この戦争にはもう一つ非常に重要な側面があるとのこと。

 第二次アヘン戦争の最中、清朝は同時に太平天国の乱(1850~1864年)とも戦っていたそうです。

 つまり清朝は、「国内では巨大な内戦 + 国外では英仏軍との戦争」という二重の危機に直面していたとのこと。

 そのため、第二次アヘン戦争を単独として扱うよりも、

「太平天国の乱 → 第二次アヘン戦争 → 洋務運動」

という流れで見ると、19世紀後半の清朝がなぜ「西洋技術を取り入れて国家を強化しよう」とする洋務運動へ向かったのかが、かなりよく分かるとのこと。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 この時代のイギリスを「自由貿易帝国主義(imperialism of free trade)」と表現する歴史学上の有力な視点があるようです。

 「通商圧力⇒戦争」ですな。

 とすると、戦争の駆動力は「通商」であり、その背後にある「金融」と考えるのは間違いでしょうか?

 そして、やはり、北京条約と日米修好通商条約の関係は気になるところです。

 次に続きます。

 このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
 このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争」
・「ナポレオン戦争」
・「テキサス独立戦争」
・「第一次アフガン戦争」 
・「第一次アヘン戦争」  
・「アメリカの戦争(米墨戦争ほか)」 
・「クリミア戦争」   

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