(抜粋)ロシア黒海艦隊の拠点で、英仏の標的となったクリミア半島。そこにはロシアでもなく、オスマン帝国でもなかったクリミア・ハン国が存在していました。クリミア半島の歴史を理解するためには、このクリミア・ハン国を把握する必要があると考えました。そこで、チンギスハンにさかのぼるとされるクリミア・ハン国を調べてみることにしました。



「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。
ここしばらくはクリミア戦争(1853年~56年)を俯瞰しています。
クリミア戦争は前半と後半があることが分かりました。
前半はオスマン帝国とロシアの紛争で、クリミア半島とは別の場所で生じました。
後半は英仏が黒海に介入し、最終的にはクリミア半島が戦場となりました。
英仏介入の切っ掛けはロシアの黒海艦隊によりオスマン艦隊が壊滅状態になったシノープの海戦でした。
ロシア黒海艦隊の拠点で、英仏の標的となったクリミア半島。
そこにはロシアでもなく、オスマン帝国でもなかったクリミア・ハン国が存在していました。
クリミア半島の歴史を理解するためには、このクリミア・ハン国を理解する必要があると考えました。
そこで、チンギスハンにさかのぼるとされるクリミア・ハン国を調べてみることにしました。
例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。
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0)はじめに
クリミア・ハン国は、前回のロシアの黒海進出→クリミア併合→黒海艦隊創設→クリミア戦争という流れを理解するうえで、とても重要な存在とのことです。
1)クリミア・ハン国(Crimean Khanate)とは
クリミア・ハン国は、現在のクリミア半島を中心として、15世紀初頭から1783年まで存在したイスラム教の国家。
成立は一般に1441年頃とされ、支配者は「ハン(汗)」で、王朝はギレイ(ゲライ)家だったそうです。
この王家は非常に重要な血統を持っているとのこと:チンギス・ハンの子孫。
ギレイ家は、チンギス・ハンの長男ジョチの子孫とされ、クリミア・ハン国は単なる「クリミア地方の国」ではなく、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)※の後継国家の一つと位置づけられるそうです。
※)チンギス・ハンの長男ジョチの系統が東ヨーロッパやロシアのキプチャク草原を中心に支配したモンゴル帝国の分国(ウルス)※※。
※※)13世紀にこの国家の支配者層の一部がイスラム教に改宗したそうで、クリミア・ハン国がイスラムの国だったのはその継承だったようです。
2)成立過程
もともとクリミア半島は、ジョチ・ウルス(黄金のオルド)の支配下にあったそうです(13世紀)。
14~15世紀になると、ジョチ・ウルスが次第に分裂してゆき、その過程で、クリミアではハージー・ギレイという人物が独立勢力を形成し、1441年頃にクリミア・ハン国を成立させたそうです。
首都は当初さまざまな場所にあったようですが、最終的にはバフチサライ(Bakhchysarai)※が首都となったとのこと。
※)セバストポリの北東20㎞。
現在もクリミア半島にあり、ハン国の宮殿であるハン宮殿(ハーンの宮殿)が残っているそうです。
3)オスマン帝国との関係
クリミア・ハン国を理解するうえで非常に重要なのが、オスマン帝国との関係とのことです。
1475年、オスマン帝国がクリミア半島南部のジェノヴァ植民都市※などを征服すると、クリミア・ハン国はオスマン帝国と密接な関係を持つようになったそうです。
※)イタリア半島の付け根にあるジェノバは、十字軍の支援を通じて軍事・経済力を高め、1197年のアンティオキアを皮切りにオリエント各地へ植民市を設置したそうです。上記の関連ではカッファ(Caffa/現在のフェオドシヤ)、ソルダイア(Soldaia/現在のスダク)、チェンバロ(Cembalo/現在のバラクラヴァ)などが対象となるようです。
やがてクリミア・ハンはオスマン帝国の宗主権を認めるという立場に。ただし、完全にオスマン帝国の一地方になったわけではなく、かなりの自治権を持つ従属国・属国に近い関係だったそうです。
4)軍事的に非常に強かった
クリミア・ハン国の最大の特徴の一つが騎馬軍事力。
住民の中心はクリミア・タタール人で、遊牧・半遊牧的な生活を営む人々が多く、優れた騎馬戦力を持っていたそうで、特に有名なのが、周辺地域への襲撃(レイド)だったそうです。
クリミア・タタール軍は、
・ロシア南部
・ウクライナ※
・ポーランド=リトアニア
などをたびたび襲撃。
※)当時は「ウクライナ」という国は無いはずで、地域としてはポーランドとロシアの一部だったと思われますが、、、。
目的は、略奪だけでなく、捕虜の獲得と奴隷交易もあったそうです。捕虜はクリミア半島に運ばれ、黒海を通じてオスマン帝国などへ売られたそうです。
5)ロシアにとって非常に恐ろしい存在だった
15~17世紀のモスクワ国家・ロシアにとって次のような脅威があったそうです。
・北・西:スウェーデン、ポーランド=リトアニア
・南:クリミア・ハン国
特にクリミア・タタール軍はモスクワまで攻撃していたそうです。
例えば1571年、クリミア・ハンのデヴレト1世はモスクワを攻撃し、モスクワ市街の大部分を焼き払ったとのこと。
逆に、翌1572年には、ロシア軍がモロディ※の戦いでクリミア軍を撃破。
※)ロシアのモスクワ南方約50キロメートルにある「モロディ村(Molodi / Молоди)」の周辺地域。
6)18世紀になると力関係に変化
ロシア史の大きな転換点。
18世紀になるとロシア帝国の南下※が始まったそうです。
※)ロシアは17~18世紀に、人口、農業生産、税収、兵士の供給能力を大幅に増やしたそうです。「領土拡大=農地拡大」が背景にあったようです。特に、南方では草原地帯を定住農地としていった※※とのこと。
※※)アメリカの「明白な天命」による西進と似たようなものでしょうか?
結果、ロシアは、
・黒海への出口
・アゾフ海
・クリミア
・北カフカス
方面への進出を強めたそうです。
特に重要なのが1768~1774年の露土戦争で、ロシアがオスマン帝国を破ると、1774年のキュチュク・カイナルジ条約によって、クリミア・ハン国はオスマン帝国から形式的に独立した国家とされたそうです。
しかし、これは実質的には、「オスマン帝国から切り離して、ロシアの影響下に置く」という意味を持っていたそうです。
7)ロシアがクリミアを併合(1783年)
その後、ロシアはクリミア・ハン国への影響力を強め、最終的に1783年4月8日(旧暦)、エカチェリーナ2世がクリミアをロシア帝国に併合したとのこと。
そして、セヴァストポリ建設⇒黒海艦隊創設という出来事が相次いだそうです。
《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《
草原の民に農耕民族が怯えるのは古代中国でもおなじみの歴史です。
ロシアとクリミア・ハン国との関係も、時代は違えど、農耕民族vs騎馬民族の構図が窺えます。
国家戦略とは言え、農耕地区を南方展開させたロシアと、「明白な天命」を合言葉にメキシコを蚕食していったアメリカ、この違いを見出すのに困難を感ずるのは筆者だけでしょうか?
次に続きます。
このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争」
・「ナポレオン戦争」
・「テキサス独立戦争」
・「第一次アフガン戦争」
・「第一次アヘン戦争」
・「アメリカの戦争(米墨戦争ほか)」
・「クリミア戦争」




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