
「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。
ここしばらくは、イギリスが清国(中国)に仕掛けたアヘン戦争(1839年~42年、56年~60年)に焦点を移しています。
前回は、講和条約である南京条約を補足した虎門条約を俯瞰しました。
ところが、不平等条約は対イギリスだけでは済まなかったようです。
今回は南京条約と虎門条約に付け込んで漁夫の利を得たフランスとアメリカが結んだ条約についてみてゆきます。
例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。
》》》》》》》》ここから》》》》》》》》
第一次アヘン戦争(1842年終結)から第二次アヘン戦争(1856年開戦)までの間に、清国はイギリス以外の列強とも次々に条約を結んだようです。重要なものを年代順に列挙すると以下のようになるとのこと。
1843年 イギリス 虎門条約
1844年 アメリカ合衆国 望厦条約
1844年 フランス 黄埔条約
1845年~ 他の欧州諸国 英米仏の権益を準用する協定が増加
1)望厦条約(1844年、アメリカ)
締結地はマカオ近郊の望厦(ワンヒア)で、交渉したのはアメリカ公使ケイレブ・クッシング。それを命じたのはホイッグ党のジョン・タイラー大統領だったそうです。内容は、
・領事裁判権
・最恵国待遇
・開港場での居住・貿易
・関税協定
など、虎門条約でイギリスが得た権利をほぼそのままアメリカも取得。
アメリカはアヘン戦争には参戦していないにもかかわらず、
「イギリスが得た権利を平和的交渉で獲得した」
という点が特徴。
⇒⇒一体、どのような交渉だったのでしょうか※?
※)クッシングは清側に対して「我々はイギリスとは違う。友好的に交渉したい」と語る一方で、背後には軍艦を待機させ、必要なら武力も辞さない姿勢を示していたそうです。
2)黄埔条約(1844年、フランス)
広州近郊の黄埔(Whampoa)で締結。フランスはイギリスやアメリカと同様の商業上の特権を得たそうです。
さらに重要なのは、「カトリック布教の権利」が認められたことで、以後、「中国におけるカトリック保護国」をフランスが自任するようになったそうです。後の第二次アヘン戦争でも、「宣教師保護」がフランス参戦の名目の一つとなったそうです。
3)なぜ列強が次々と同じ権利を得られたのか
「最恵国待遇」により、列強は互いに競争しながらも、「誰か一国が特権を獲得すると皆が利益を得る」状態になっていたとのことです。
⇒⇒ただし、これは結果であり原因ではありません。要点は、清国がそのような不利益を次々に認めてしまった理由にあります。これは後程に。
4)第二次アヘン戦争直前の状況
1850年代半ばになると列強は、
・北京への公使常駐
・中国内地への自由旅行
・キリスト教布教の拡大
・貿易港のさらなる増設
を要求するようになったそうです。
対して、清国は譲歩を拒んだとのこと。
そこで1856年のアロー号事件を契機として、イギリスとフランスが再び武力行使に踏み切り、第二次アヘン戦争へ発展※。
※)日本の幕府はこの一連の展開を観察しており、1854年の 日米和親条約 や1858年の 日米修好通商条約 の交渉時には、「清国と同じ轍を踏まないか」が大きな関心事となっていたそうです。
5)清国が「漁夫の利」を次々に認めてしまった理由
清国は必ずしもアメリカやフランスをイギリスと同等の軍事力とは考えていなかったようですが、しかし、
「イギリスだけを特別扱いして他国を排除することは現実的に不可能である」
と認識するようになっていたそうです。
その理由はいくつかあるそうです。
ア)清国は「西洋諸国は一体」と見始めた
アヘン戦争以前の清朝官僚は、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、ポルトガルの区別をあまり理解していなかったとのこと。「紅毛夷(西洋人)」として一括して捉える傾向があり、アヘン戦争で敗北した結果、
「一国に勝てないなら、他国にも勝てないのではないか」
という認識が広がったそうです。
⇒⇒本当にそうだったのでしょうか?
つまり、「イギリスだけが危険なのではなく、西洋文明全体が危険である」という理解だったそうです。
イ)アメリカは「イギリスの次に来る」と思われた
1844年に望厦条約を求めたアメリカ公使クッシングは、(上述のように)かなり露骨な交渉を行ったそうです。彼は概ね、
「イギリスに与えた権利をアメリカにも認めなければ問題になる」
という姿勢だったとのこと。当時の清国には、
「アメリカの要求を拒否したらどうなるか」
を試す余力が無かったそうです。
実際には、アメリカ海軍はイギリス海軍ほど強力ではなかったようですが、清国にはその差を正確に評価する能力がほとんどなかったとのことです。
ウ)清国は再戦を恐れていた
これが最大の理由なのだそうです。
1842年当時、広州陥落、長江封鎖、南京到達という衝撃を受けたばかりで、敗戦の原因も十分分析できておらず、清国朝廷では、
「また外国艦隊が来たらどうするのだ」
という空気が強かったようです。アメリカやフランスを拒絶した場合にそれらが武力を用いるかどうかは分からないが、「拒絶して戦争になるリスク」は避けたいため、要求を飲む方が安いと考えたとのこと。
⇒⇒巨人が倒れる際には斯様に脆弱になるものでしょうか?
エ)清国は列強間の対立を利用できなかった
当時の清国の外交技術は未熟で、列強間の対立を利用する術を持っていなかったようです。
「イギリスには認めるが、アメリカには認めない」と言った場合に、アメリカがイギリスと対立してくれる保証はないと考え、
「西洋諸国が一致して圧力をかけてくる」
ように見えたようです。
⇒⇒「尊王攘夷」も類似の考え方だったのでしょうか?
《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《
次に続きます。
次はアヘン戦争を一旦離れて、米墨戦争(1846年~48年)をご案内する予定です。
このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。「アヘン戦争」ミニシリーズの初回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争」
・「ナポレオン戦争」
・「テキサス独立戦争」
・「第一次アフガン戦争」




コメントを残す / Leave a comment