19cw052: 19世紀の戦争_052_米墨戦争_1846年~48年_6_プロパガンダ

(抜粋)アメリカの「明白な天命」思想を支えたといわれるアメリカ例外主義。それが知識層から一般国民に如何様に伝搬したのかを調べてみました。

1833年9月3日創刊のペニー・プレス「The Sun」の1834年11月26日付1面。現在のイギリスのThe Sunとは異なります(笑)。こちらから転載させて頂きました。

「戦争を無くすためには戦争の本質を理解する必要がある」という考え方に立脚して本シリーズに着手しました。

 アメリカが起こした米墨戦争(1846年~48年)の結果は、アメリカから見ると「侵略大成功」です。

 侵略を是とする考え方が「明白な天命」という概念であり、それを支えたのはアメリカ例外主義だったとのこと。

 前回の調査で、「アメリカは(歴史の)例外」とする根拠は複数要因の合成であり、個々の要因は疑問符が容易につく程度のものだったことが分かりました。

 とはいえ、その複合を理解するにはある程度の知性が求められるように感じました。

 当時のアメリカ国民の全てが高い政治的知性を有していたとは考えにくいので※、知識階層から一般国民への情報伝達があったと考えられます。
※)農民には農作などに必要な高い知性があり、当時のアメリカ農民の多くはこの種の知性に長けていたと思われます。他方、情報伝達に制限があったはずの19世紀には「国民全体が高い政治的知性を有していた」可能性は低く、プラトンが指摘していた危惧はアメリカにも包含されていはずと筆者は考えます。

 そこで、「明らかな天命」思想やアメリカ例外主義が如何様に伝搬していったかを調べることにしました。

 例によって、ChatGPTに質問する形で調査を進めました。

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0)はじめに
 「多くのアメリカ人が明白な天命を信じた」という表現は、厳密にはかなり粗っぽい表現と考えてよいようです。

 実際には、
思想を体系化したのは知識層(新聞編集者、政治家、牧師、弁護士、大学教育を受けた人々)
それを政治的スローガンとして広めたのも知識層
一般市民は、その思想の細かな理論を理解したというより、「西へ行くのは当然だ」「アメリカは特別な国だ」という形で受け止めた
という段階構造だったと考えられているそうです。

 例えば、「Manifest Destiny(明白な天命)」という言葉自体を1845年に広めたのは、新聞編集者のジョン・L・オサリヴァンで、彼は哲学者ではなくジャーナリストであるものの、知識層の一員。

 では、どうやって一般国民へ広がったのでしょうか?

 ここで重要なのは、1840年代のアメリカは現在ほど識字率が低い社会ではなかったということなのだそうです。

1)新聞
 最大の役割を果たしたのは新聞。
 1830~40年代には、いわゆる「ペニー・プレス」※と呼ばれる安価な新聞が急速に普及※※。
※)価格1ペニーの日刊紙で、The Sun(1833年創刊:1837年頃には約3万部)、New York Herald(1835年創刊:1840年代には3~4万部)、Public Ledger(フィラデルフィア:1836年創刊: 1840年に約1万5,000部、1850年頃には約4万部)、New York Tribune(1841年創刊: 1840年代後半には数万部規模)など。当時の1ペニーで買えたものはリンゴ1個程度だったようです。
※※)とはいえ、当時のアメリカ人口1700万人に対しては購読者は十数万人と計算でき、人口普及率は1%程度だったでしょうか?どうやら、都市部※※※での普及率はより高く、10人程度の回し読みもあったようですので1%は過小評価と考えられます。
※※※)政府への影響力という意味では東海岸の都市部の世論が強かったのかもしれません。

 新聞には、テキサス併合、オレゴン問題、メキシコとの対立などが毎日のように掲載されたそうです。

 当時の新聞は、今日の「報道」と「論説」がかなり混ざった性格を持っていたようで、政党や編集者が自らの政治的立場を積極的に主張していたとのこと。

2)教会
 毎週日曜日、多くの人々は教会へ集まり、そこで牧師は、
・神の摂理
・国家の使命
・西部開拓
などを説教の中で語ることがあったそうです。

 すべての牧師が「明白な天命」を支持したわけではなく、奴隷制や戦争に反対する牧師も少なくなかったそうです。

3)学校
 公立学校制度が整備され始めた時代でもあったようです。

 歴史教育では、
・独立革命
・建国の父たち
・自由
などが強調さたそうです。

 ただし、学校教育が「明白な天命」を直接教えたという訳ではないようです。「アメリカは自由の国である」という国民意識を育てる役割を果たしたと考える方が適切なのだそうです。

4)政治家の主張
 例えば、大統領候補※だったジェームズ・K・ポークはオレゴン問題やテキサス問題について繰り返し主張※※したそうです。
※)当時の大統領選挙は現在のそれとは異なったようです。党の予備選挙は無く、各州の党代表が全国大会に集って話し合いで大統領候補を決めたそうです。
※※)党の大統領候補となってから大統領選まで数か月で、現在よりもかなり短かったようです。しかも、候補本人が演説することは控えるべきという風潮があって、主として政党・支持者・新聞が主張の媒体となったようです。

 選挙運動も重要な情報源だったようです。

5)西部開拓の実体験
 実際に西へ移住した人々にとっては、土地が手に入り、生活が向上するという実感があり、「この国は正しい方向へ進んでいる」と考えるようになったそうです。

 思想だけではなく、成功体験も宣伝以上に強い影響を持っていたようです。

6)「プロパガンダ」という表現について
 この時代については「プロパガンダ」という言葉は場合によっては適切というのがChatGPTの意見のようです。

 その理由は、新聞や政治演説には明らかに
・世論形成
・有権者の説得
・戦争支持の喚起
という目的があったそうです。

 ただし、20世紀の全体主義国家のような国家主導の情報統制とは性格が異なり、
・政党系新聞※
・教会
・政治集会
・パンフレット
など、多様な主体が競い合う中で世論が形成されていったそうです。
※)1840年代の新聞は政党支持を明確に掲げていたそうですが、1850年代に入ると新聞社は「政党から補助金をもらうより、読者を増やした方が儲かる」ことに気付いたそうで、政党色を自ら消したそうです。

《《《《《《《《ここまで《《《《《《《《

 「アメリカ例外主義」が新聞、教会、学校、選挙などを通じて庶民に伝搬していった様子が窺えました。

 ただし、「侵略」を公約に掲げた大統領候補を当選させたのは選挙です。

 選挙結果と国民の考えが乖離することはよくあり、当時もそうであった可能性は否定できません。

 次回は当時のアメリカの選挙制度に踏み込んでみたいと思います。

 次に続きます。

 このシリーズはこちらに続きます(新しく投稿されるとそちらにリンクされます)。
 このシリーズの初回はこちら、同じく前回はこちらです。他のミニシリーズの初回は以下の通り。
・「フランス革命戦争
・「ナポレオン戦争
・「テキサス独立戦争
・「第一次アフガン戦争」 
・「第一次アヘン戦争」   

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